多賀城趾周辺(その2)
多賀城は「歌枕の地」としても有名ですが、そのなかでも「末の松山」はとくに有名で、三十六歌仙の一人清原元輔が詠んだ「契なき かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 なみこさじとは」の歌碑は、多賀城市八幡の宝国寺の奥にあります。また、すぐ近くには喜太郎伝説で知られている喜太郎稲荷神社(別名天童神社)もあります。
末の松山から南へ伸びる道を下ると、奇石が連なる池が見えてきます。今は住宅地の中にある一見何の変哲もない池ですが、二条院讃岐が千載和歌集の中で詠んだ「わが袖は しほひにみえぬ おきの石の 人こそしらね かわくまぞなき」の「沖の井(沖の石)がここです。いにしえの歌枕が今もひっそりと息づいている光景はとても不思議な感じです。
喜太郎稲荷神社からほど近く住宅が立ち並ぶ一角に、天童氏歴代のお墓がひっそりと立ち並んでいます。多賀城市と友好都市の関係にある天童市ですが、そもそもの縁は、戦国時代に山形県天童一帯を治めていた天童氏が最上義光との戦に敗れ、母方の実家であった国分氏を頼り、やがて現在の多賀城市八幡区に移り住んだことに始まるということです。