石巻城址
旧北上川河口西岸にそびえる日和山(標高56m)を利用した大規模な山城は、源頼朝の家人葛西清重が創築したと伝えられています。葛西清重は、文治5年(1189年)の奥州合戦の恩賞として源頼朝から、牡鹿郡ほか数か所の所領を与えられ、以後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉によって滅ぼされるまでの約400年間、牡鹿郡は葛西氏の重要な所領であった。
なかでも日和山は、その居城があったところとして伝えられていますが、葛西氏の奥州における所領支配の実態は明らかではなく、その居城についてもはっきりしたことは解っていませんでしたが、昭和58(1983年)の発掘調査によって、この地日和山に大規模な中世城館があったことが確認されたため、ここが葛西氏の居城であったことが解りました。
また、一説には、牡鹿、登米、本吉など7郡を領する葛西氏の居城として修築が重ねられたが、天文5年(1536年)に15代晴胤が登米郡の寺池城に本拠を移し、廃城となってしまったとも言われています。更には、16代晴信が天正初年(1575年ごろ)に寺池城に移ったとという説もありますが、現在は石巻市のシンボル的な城址として保存されています。