小春日和
オヤジが子供のころは、秋といえば台風シーズンというイメージが強かったようですが、一方、夏の暑さと冬の厳しさの間にあって、ホッと一息つく時節でもあったという。そういう季節感を象徴するのが、「小春日和」なのかもしれませんね。人は気ままなもので、太陽の光がギラギラする夏場は早く秋がきて、涼しくなればいいのにと思いながらも、秋という季節独特の寂しさも頭をよぎる。やがて本格的な秋が訪れれば、やはり、台風や小雪が現実を帯びてきて、小春日和が恋しくなる。このころになると海辺に行ってみても誰も人がいない。つい先日まで海水浴客でにぎわっていたのがウソのように静かで寂しいは限りです。でも、その一方で、この季節ならではの楽しみもたくさんあります。その代表格が紅葉でしょう。オヤジとお母ちゃんはこの季節に、毎週のように赤や黄色に色づく山々の景色見ようと繰り出します。オヤジとボクは助手席に座っているので、自由に辺りを見渡せるはずですが、何故かお母ちゃんが案内役を買って出ます。オヤジが言うには、お母ちゃんは動体視力が優れているため、車を運転している時でも、周りの景色がよく見えるようです。
オヤジも、メガネのお世話になる以前は、視力には自信があったと言っていますが、ボクがみたところ、昔からお母ちゃんにはかなわなかったようです。それに、今はどこへ行くにも高速道路を使いますから、当然景色が動くのも速いので、景色を鑑賞するのが苦手になってきているようです。でも、本当のことを言うと、オヤジは、山のもみじよりも、たわわに実った柿の木を道路から眺めるのが好きなので、一般道を走りたいのでしょうが、時間を節約するためには高速道路を使わないわけにもいかず、やむを得ないと思っているように思います。オヤジは、特別柿が好きというわけではないのですが、曲がりくねった旧道を走るとき、次の角を曲がるとどんな柿の木に出会えるかがとてもドラマチックに思えて楽しいと言います。その風景が小春日和と重なると、何故かやがて来る冬の寒さに立ち向かう勇気が生まれるのだそうです。春には珍しくない日和でも、冬にはごくまれな小春日和は、やはり秋にしかない独特のノスタルジーがあるのかもしれません。普段はドンカンでお母ちゃんにやられっぱなしのオヤジですが、これだけは譲れないそうです。
いい年をして、少し子供ぽいと感じることもありますが、オヤジに言わせると、人はみな子供が成長したもので、大人になると子供の部分がなくなってしまうわけではない。しかし、子供っぽい部分を常に露出していると、他人から馬鹿にされるので、大人色のスプレーで塗り固め、昔から大人だったような顔をしているが、その実中身は子供のころからそれほど変わっていない人は大勢いる。また、その子供がしみ出して大人色を侵食することは珍しいことではない。当然、オヤジも昔からオヤジであったわけではないから、子供のころの自分が表に出るというのは自然なことです。まして、小春日和やいっぱい実をつけた柿の木が好きだからといって、いまどき校長先生に叱られるような悪いことではない。オヤジにとっては、昭和のよき時代の原風景を眺めることで、昭和生まれの人間がまだ健在であると自分自身に言って聞かせたかったのでしょう。ボクは、オヤジよりはるかに後から生まれ、先に旅立ってしまいましたが、こうした巡り合わせがあったからこそ、相棒になれたわけです。昭和の香りがするわが家こそ、ボクに相応しい居場所です。