角田市郷土資料館(旧氏丈邸)その2
碇子館長は「牟宇姫と特に親しかった姉の五郎八姫(徳川家康六男松平忠輝に嫁ぎ、後に離縁して仙台に戻る)やお兄さんの宗高公(村田城主)からの手紙には、なかなか手紙が出せなかった言い訳が欠いてあるのが数多くあります。現代の手紙のやりとりに通じるものがあって、面白いですね」と歴史に触れる楽しさを語る。また、牟宇姫の時代も、今の時代と似ていて自然災害が多く、大雨や洪水で広瀬川にかかる仙台城近くの大橋が何度も流され。五郎八姫の手紙は、天気の話題も多く、「凄まじい風雨で、大橋が落ちやしないかと心配した」といった内容の手紙も残っているそうだ。
五郎八姫からは、年の離れた妹をちょっとからかうようなユーモアのある手紙もあった。碇子館長は「手紙や資料から、牟宇姫は明るく気立てがよく、目上目下に関係なく心を配り、たくさんの方々に愛されていたのだろうと感じます」と話す。牟宇姫は、姻戚関係にある京都の公家・水無瀬家の帥局(そちのつぼね)と親しく手紙や贈り物を交わしていた。五郎八姫も、離縁して戻ってきたとはいえ、徳川家とのつながりは多少なりとも続いていたのではないだろうか。
女性同士のつきあいが、伊達家を陰ながら支えていたのかもしれないと、碇子館長は想像を広げる。さらに牟宇姫が68歳のときに書いた自筆の写経合わせて16巻が、高蔵寺と松島瑞巌寺に残っている。「伊達騒動の4年後のことですので、藩の安泰を願ってのことではないでしょうか」と碇子館長は考えを巡らしていた。また、「牟宇姫が、68歳でこれだけのことを成し遂げられたのは、体が丈夫だったからと考えられます」とも。これらの手紙をまとめた冊子が2020年の春に郷土資料館から発行されました。お姫様たちの新たな一面を知ることができます。