争いを鎮めるには
私たち生き物の歴史は、争の積み重ねによって築き上げられてきた。そして、その争で勝利を治めた者が覇権を握ってきた。ここから得られた教訓は、争うことによって生じる犠牲の大きさが、争いによって勝ち取る利得よりも上回るということであった。そこで考え出されたのが民主主義という方法であったはずだ。この制度の原則は、① 少数意見を最大限に尊重するため、徹底的に議論を戦わせる。② どうしても合意に達しないときは、やむを得ず投票により多数決により決着をつける。ただ、現実問題として時間的な制約もあり、議論が十分に尽くせないまま、あたかも多数決が優先しているような形で、物事が決定されていくこともあるように感じることもある。でも、よく考えてみると、各個人がもっている正義がそれぞれの立ち位置によって違うため、元々議論がかみ合わないのは当然であるともいえるわけであるから、十分に議論を尽くすといっても、どの程度の議論が十分という名に値するかについても明確な合意が得られているわけでもない。かくして、多数を占めている党派の論理が優先されることになるわけである。
この競り合いに負けた者は、ルールの運用の仕方がおかしいと言って、不満を漏らすが、周りを見渡してみると、政治の世界に限らず、すべての社会システムがこうした枠組みでガンジガラメにされている。こうして考えてみると、民主主義とは、強いものが勝つというよりも、勝ったものが強いという有史以前からの不文律が現代にも脈々と続いているとも言えるかもしれない。このいかにも野蛮な不文律は、見方を変えれば一面合理的でもある。つまり、弱肉強食というのは、単に強いものが弱いものを食い物にするというだけではなく、弱い者に一定程度の生存領域を認めている。それは決して強いものが情け深いからではなく、弱いものが絶滅してしまうと、自分たちの生存が危ぶまれるからである。人間社会に限ってみても、強力で覇権を握っている層よりも、権力をもたない一般市民の方がはるかに多いのはそのせいかもしれない。中世でも、奴隷たちが道路や橋を造り、畑を耕して食べ物を作ってきた。そしてこれらの奴隷が明日も働けるように一定の食事を与えてきた。つまり、権力者のわがままを支えるためには、大勢の弱者が必要だったのである。
ちなみに、その後奴隷が解放されはじめたのは、権力者が急に優しくなったからではなく、働く時間に対してコストがかかり過ぎる、つまり生産性が低いことに気がついたからである。人間が家畜を育てるのと論理的にはそう変わりない。こうしてみると、多くの人々が他人の人権を尊重し、共存することを願うのも、本当は人道主義的根拠に基づくもではなく、ある機会に強権を手にしたものが、大勢の弱者の存在をひそかに歓迎しているからである。すなわち、弱者が一定程度の割合が保てなくなれば、こんどは自分が弱者にランクダウンしてしまうことへの恐怖心の表われかもしれないということだ。もしそうだとすれば、われわれは、自分が信じる道を正義とし、清く正しく弱者として一生を全うするか、あるいは、主義主張をある程度曲げても、強者に媚びを売り、その利得のほんの一部をお裾分けしてもらって、中の上ぐらいの人生を狙うかのどちらかであるような気がする。もちろん、どちらの人生を選択するにしても、「これが本当の生き方だ」などという根拠はなかなか見つからない。結局は、ボクもオヤジも、日和見をしながら中道を行くしかない。これが、暑苦しい議論の結末でした。