心配性の人と楽観的な人違い
最近よく話題になっているのは、人間の仕事の50%程度がロボットに取って代わられるという話である。これは人間にとって有難いのか迷惑なのかよく解らない。少子高齢化を危惧しているのであれば、若い労働力の不足分をロボットが代わって働いてくれるというのなら、これほど有難い話はないはずだが、心配性の人は自分の職域を冒されるのではないかと心配している。元々、ロボットを開発しようと思った動機は、単純労働で非効率な仕事をもっと軽減できないか、あるいは危険な仕事から人を解放できないか、という発想が原点だったはずなのに、AIがだんだん進化し、しまいには人間を支配するようになるのではないかという不安が頭をよぎり始めたのである。こうして不安を煽るかのように、排除される可能性のある職種を具体的に上げ、おまけに95%まで代替されるなどという数値まで発表されている。しかし、これには当然のごとく反論もある。その主張するところは、現在の仕事が全くルーティーンでいつも同じパターの仕事が継続されているという前提で計算されている。仕事には元来ハプニングがつきものであるから、これをAIですべて解決するのは無理であるというものだ。
どちらの説が正しいのかは現段階では判断できかねるが、だからこそ、そんなことには関心がないというのが楽観主義主のように見える。しかし、そうした一見楽観主義者は、その実、内心では非常に関心をもっていることが多い。つまり、都合の悪いことには耳を傾けず、都合のよいことを寄せ集めて自説の根拠を作り上げている。つまり、内心穏やかではないので、これを打ち消すためにそんなことには興味がないというポーカーフェィスを決めているだけの人もいる。一方で、そんなことはどっちだっていいという本当に楽観主義者だと自他ともに許す人も確かにいる。だが、そういう楽観主義者の中にも、実際は技術革新の早さよりも自分が年を重ねる速さの方が遥かに速いことを知っているため、所詮他人ごとだという人もいる。しかし、よく考えてみると、弟子が師匠の技を盗みやがて師匠を超えるということはある意味、称賛されることでもある。してみれば、人のまねをさせようと思い開発したロボットが、成長して師匠である人間を上回る能力を身に付けることは喜ばしいことでもあるはずだ。
人口の減少により社会の枠組み崩れ、老後の生活がままならないので、労働力人口を増やすのが喫緊の課題だというのなら、優秀なロボットの出現は歓迎すべきことであるだろう。というか、それが本来の目的でもあったはずなのに、あまり利口になり過ぎると、それを開発した人が人生の引退を勧告されるのではないかと危惧するのは、心配しすぎというものではないだろうか。ロボットが美味しいステーキを人間から奪って食べまくるなどということは考えられない。なにしろ、彼らは、飲まず食わずで昼夜を問わず働き続けても、決して疲れないという優れモノであるわけだから、ご主人様である人間には決して反旗を翻すことなどないと信じる。それなのに、人口が減少して労働力が不足すれば、社会福祉制度を維持していけないと嘆き、それならば、労働力強化のためにロボットを助太刀にしようと言えば、自分の仕事がなくなると心配する。本当の心配性とはこういう矛盾を自分で見つけ出し、その結果がいいにつけ、悪いにつけ、常に悩むことを楽しんでいるかのような人のこと言うのかもしれませんね。