教育という名のいじめ
昨今話題になっている、親が子供の教育に熱心なあまり、その成果が思わしくないといじめに近い強要にまでエスカレートしてしまう。こうした親のタイプには2つあり、一つは、親が受験に失敗し、それが今日の会社の地位に大きく影響していると感じ、自分の子供には、そうした思いをさせたくないので、とにかく勉強させなければという親心が高じてしまうタイプ。もう一つは、自分が今の地位にあるのは、子供のころ一生懸命勉強に励んでためであると信じている。そこで、自分の子供にも、世間から羨ましがられるような人間になるようにと、成績の向上に力を入れる。もとより、人の考え方は自由であり、こうしたタイプの人を称賛するのも、批判的なのも自由である。しかし、こうした親の考えるいわゆる「立派な人間」だけが、人間のあるべき姿なのか? 第一、子供がそういう生き方を望んでいるのか? 子ども人権についてはどう考えているのか等々。大いに疑問が残る。このような疑問をこうした教育熱心な親に投げかけると、たちまち、「子供はまだ世の中を知らないので、勉強することの大切さが解っていない」。
「だから、親が正しい道を教えてあげるしかない」という答えが返ってきそうだ。だが、世の中にはいろいろな人生がある。例えば、子供のころ、周りの人から天才と呼ばれ、「将来は超有名大学の医学部に入り、立派な医者になること間違いなし」といわれ期待されていた人が、どういう訳か2度も受験に失敗し、3度目にようやく別の学部を受験して合格した。そして、その後も啼かず飛ばずの人生だった人もいる。もちろん統計的な確率から言うと、高い教育を受けた人は、概して所得も多く、一般的には幸せな人生を送っているという。しかし、それは今の社会の枠組みがそのようにコーディネートされているからであり、人の幸せは他人が決めるものではない。自分がどういう人生を歩みたいかによって評価すべきものである。もちろん、それには学校で習う勉強は基本であり、成績もよいに越したことはない。ただ、自分の子供のころを考えてみれば解ると思うのだが、確かに幼稚でつたない面はあったが、自分には自分なりのステータスがあったはずだ。それが社会の常識からやや外れていただけで、「ダメなやつ」という烙印を押されていた。
幼いとはいえ、子供にも人格があることを認めるべきであり、親の価値観を押しつけることが、決して教育ではないのではないか。子供がどんなことに興味をもち、それをどのように伸ばしてあげれば、子供の未来が開けるのか! こうした視点で温かく見守ってあげることが教育ではないのでしょうか。勉強をするのを嫌がる我が子を教育熱心と自称する親が、その熱意が高じて体罰を与えてしまう。これでは、子供の個性が円満に育つはずがありません。これはまさしく「角を矯めて牛を殺す」構図ではないでしょうか。こうして閉ざされてしまった未来は、その子供の人生はもとより、社会に貢献するかもしれない貴重な芽を摘んでしまうことになる恐ろしい過ちです。自分の子供は、医学的には確かに親である自分のDNAを受け継いでいるわけですら、自分と似ている面が多いことは否定できません。しかし、性格や趣味嗜好などが全く違うことは珍しいことではない。それ自体が個性の表われであり、誰もがそれを尊重すべきものです。子供がどういうものに興味を示すかをよく見極め、その興味を伸してあげる。その過程で勉強が役立つことを折に触れて説く。こうした親子関係がボクとオヤジの理想です。