遠刈田の七福神と組子技術
ロシアの組子人形"マトリョーシカ"生誕の地とされるセルギエフ・ポサードの美術教育玩具博物館に、一組の古い組子人形が展示されている。日本から海を渡ってきたもので、「FUKURUMA」と表示されている。1890年代、マトリョーシカは、日本からやってきた"七福神"の木地人形がモデルとなって作られたのだ。当時の七福神は、箱根や小田原で盛んに創られていた縁起物のお土産だった。その頃箱根塔ノ沢にロシア正教会の避暑館があり、そこに来ていたロシア人が七福神をお土産に持ち帰り、マトリョーシカが生まれたと伝わっている。
ロシアには古くから木製のイースターエッグや小さな野菜や指人形が収まった蓋物細工も作られており、いずれも日本の木地玩具に酷似している。一方、小田原や箱根から木地挽きの技術が伝わった遠刈田では、こけし、やみよ、おしゃぶりといったものが二人挽き時代からつくられていたが、一人挽きのろくろ技術が伝えられた明治10年代から20年代、新たな湯治場土産として多くの玩具が作られた。佐藤松之進が書き起こした「木地人形記」によると「福禄寿七組の大、明治時代、丈五寸より六寸以上迄」とある。
七福神一組作るには、七寸こけし百本分の手間がかかると云い、一人前の工人が木地挽きから描彩までやって、一日に六組程しか作れなかった。直助は七福神を得意とし、達磨を描かせると松之進の右に出るものはなかったという。ろくろ技術の発達により多種多様な木地玩具が生まれたが、大正から昭和にかけては、セルロイドやブリキ玩具の台頭で、湯治場土産である木地玩具も徐々に衰退していく。しかし、現在その技術は受け継がれ、木地挽きの腕前を活かした七福神を作る工人たちが遠刈田にいることを忘れてはならない。(こけし時代社発行 こけし時代十二号より)