大獄山権現堂(興福寺)
登米市南方の大獄山にある興福寺は、平安初期、坂上田村麻呂によって建造されたとされている古寺である。征夷大将軍坂上田村麻呂は蝦夷を平定する任にあたり、この地方の長である大武丸を大獄山で殺害し、遺骨を7ケ所に分葬してそれぞれ観音堂を立てました。興福寺の観音堂はその一つで、当時は興福寺、天王寺の2寺と48坊があった。
仏教を通じて蝦夷の教化に当たっていましたが、鎌倉以降この地方は葛西氏が治めることになりました。ところが、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったことにより、所領を取り上げられ没落してしまいました。その後に木村吉清が入部しますが、葛西大崎の一揆が起き、一揆を平定した伊達政宗が代わって領主となりました。
興福寺は、一揆に加担したため領地を没収されたものの、佐沼の領主津田氏の崇敬を受け、後に伊達家の祈祷所ともなっています。参道より仁王門をくぐり、石段を登ると5間四方の観音堂があります。明治21年の宝形造りで、向拝に施された彫刻が素晴らしい。本尊の十一面観音は秘仏です。観音堂の外壁には中国の二十四孝の物語が色彩鮮やかに彫られています。