お母ちゃんからの質問
お正月に、お母ちゃんとオヤジがボクの話で盛り上がり、その中でお母ちゃんが唐突にも、「むーちゃんはお留守番の時、どういう気持ちでいたのかなぁ!」とオヤジに問いかけた。お母ちゃんに限らず、わが家の住人なら、誰でも理解しているはずなので、あえてそんなことは口に出さなかったのだが、お母ちゃんにしてみれば、今日はボクを連れて行けないので、お留守番です、と強く言い聞かせたわけでもないのに、ボクが全てを飲み込んで、「大人しく留守番をしているから、早く返ってきてね!」という表情でオヤジとお母ちゃんを送り出してくれた。お母ちゃんにして見れば、ドアを閉めたあと、ムサシの寂しそうな足音がなんとも言えなかったという。何度も犬を飼ったことのあるお母ちゃんは、それまで、"自分を連れてって"と、アピールするのが当たり前だと思っていた。そして、聞き訳がないと少し叱り付けた方がいくらか気が楽になったはず。しかし、ムサシは何も言わずに私たちを送り出してくれた。つまり、われわれの苦渋の決断を察し、ボクは平気だよ!というメッセージを送っていたのではないか。これがオヤジの答えだったのです。
そうだとしても、あの頼りない足音はいったい何を意味していたのでしょうか。たぶんそれは、できるものなら一緒に行きたい。それがかなわないから敢えて弁解しない。そういうオヤジとお母ちゃんの気持ちを逸早く察し、悲しみのキャッチボールはやめにしようと決めていたに違いない。そうでないと普段みんなで車に乗り込むとき、いの一番に自分の席(助手席)に乗り込み、「誰が何といおうとここはボクの席だ」と言わんばかりの鼻息だった。そんなムサシが車の席を譲るなんて、考えられなかったとお母ちゃんは言う。そう言われてみれば、確かにムサシはミステリアスなところはあるかもしれない。しかし、もっと不思議なことはオヤジと相棒になりもう30年近くもコンビを続けていることです。これは前世からの約束などという言葉では説明しきれない。しかし、二人が出会ってしまったという現実は紛れもないことである。実は、このまか不思議な出来事が起こりえる確率を計算しようとオヤジはひそかに試みていたのです。でも説明できる有意な変数を見つけることは全くつかむことはできませんでした。
でもその結果辿りつた結論は、二人がこの世で出会ったハッピー度よりも、二人が長年かけて築き上げてきた関係性にこそ意義深いものがあるとオヤジは考えているようです。もちろん、ボクもその考えをリスペクトしています。すなわち、出会いの恵みよりも、育てるための取組の方が二人の誇りになり、仕事に対するパフォーマンスの源泉に育っていったと考えているようです。お母ちゃんの質問には、明快に答えることはできませんでしたが、正直言うと、その時のボクは、あまり悲壮感を感じていませんでした。なぜなら、「必ず、オヤジとお母ちゃんは帰ってくる」「そのあととても楽しいことがある=帰ってきたらまず散歩に出かける」「留守番の役割を無事に終えたことに、二人から必ず感謝の言葉がある」など、それぞれ、適材適所の役割を演じたことを実感する。ですから、正直言って最初は少し寂しかったのは事実ですが、留守番の重要性とそれを果たすことによる充実感により、すぐに、ほどよい充実感で心が満たされました。つまり、一旦留守を任された以上、管理者としての責任を果たすモードになり、充実したひと時を過ごしていたのです。