我慢するだけでは何も変わりません
昨年末に到来した寒波が、まだ停滞しているようですが、沿岸部のここ塩釜は比較的穏やかな元日を迎えることが出来ました。それでも、世界中で起きている悲しい出来事を思うと、心から新年を寿ぐ気持ちにはなれません。誰もが平和を願っているはずなのに、ほんの少しの価値観の違いから、争いが始まり、自分の平和を脅かすものは、全て悪であるから、その人たちの平和をぶち壊すこともいとわない、という暴挙に走ってしまう。ボクもこの家に迎え入れられた当初は、自分が平穏無事で、なに不自由なく暮らせることが平和だと思い、他人の平和など全く考えることはありませんでした。しかし、その平和は、人の価値観を理解し、受け入れて共存すること以外にはないと気づきました。それは、オヤジやおかあちゃんも同じだったようです。それには多少の窮屈を我慢するという暗黙のルールが必要だったのです。でも、そのルールは話し合いの結果、契約書を交わすなどという面倒な手続きで確立したわけではないのに、あっという間に出来上がってしまったのです。もちろん、それは穴だらけで、自慢のできる代物ではありません。
そして、それから30年近くたつ今日でも完成していません。でも、わが家では、そうした状況が不便だと感じたことは一度もありません。ボクがみたところ、円満な家庭や組織では、基本的なルールがあれば、多少の小競り合いはあっても、"他人の尊厳を認める"という共通の基本理念があれば、多少の齟齬が生じたとしても、そこに立ち返ればすぐに解決できる。それは核爆弾を枕元に置いておくよりはるかに安らかに眠れるはず。それでは、その「共通の基本理念」とはいったい何でしょうか。ボクにはよくわかりませんが、少なくとも、著名な哲学者や宗教家の思想とはあまり関係ないものだと思います。ずばり、「自分は生きたい、それは他人もそう考えいるに違いない」というシンプルなものではないでしょうか。生きるために相手と戦うというのであれば、相手を殺すためにではなく、生かすために戦うのが本筋ではないか。つまり、武器を持って戦うのではなく、自分の主張の正当性を議論することで説得し合うことこそ、人類の知恵というものではないでしょうか。もはや、一般民衆はこのルールを越脱した手法に鉄槌を下す方法に気づいています。
お正月早々、硬い話で恐縮ですが、戦いに勝ったものが正しいという時代は終息に向かっていると思っていましたが、昨年は、あっという間に逆戻りしてしまったようで、ついたまりかねて愚痴を言ってしまいました。でもその一方、サッカーワールドカップでは、世界中が興奮しました。あの戦いは、強いものが正しいのでもなければ、勝ったものが正しいのでもありません。双方のチームが決められたルールを守ってプレイした結果だから称賛されるのだと思います。一方が有利になるようなルールの下では、スポーツやゲームでも、誰も盛り上がるはずはないでしょう。現状のルールに不満があれば正々堂々と言論により主張するしかないというルールは、とっくに確立されていたはずではないのでしょうか。しかし、私たち一般市民は、いつも被害者であるという意識が強く、何もしないという行為はルールに沿った行動だと勘違いしている傾向があると、オヤジは言っています。例えば、選挙権を行使しないなどが、その典型的なものでしょう。その不作為がもたらす結果が、公正であるべきルールの歪みにつながっているとすれば、大問題です。