郷土の偉人-アラスカのモーゼと呼ばれた男『フランク安田』-その2
ブルックス山脈を越えゴールドラッシュに湧く内陸部へ。途中で鉱脈探しにやってきた群馬県出身のジョージ大島に出会う。何度か場所を変えた2年後に、ポイントバローから600キロ離れたユーコン川でフランクは金鉱を発見した。シュランダラー鉱山と名付け、カーターが経営にあたり、約束通り利益の配分を受けた。そして鉱山から90キロほど離れたユーコン川のほとりに移住の候補地を探し出し、エスキモーの村づくりを決意した。だがその場所はエスキモーと対立するアサバスカン族インディアンの居住地区であったため、フランクはインディアンに詳しいジョージ大島を仲介にして、インディアンの酋長と交渉を始めた。当初難航が予想されたが、フランクは急きょエスキモーの大酋長役になって臨み、誠意が通じて交渉は成功した。土地への入植が認められると、早速この地を買い上げて登記し、移住者を迎え入れるためのロッジや、交易所などの建設に取りかかった。
手筈を整えポイントバローに戻ったフランクは、移住を希望する約200人のエスキモーを引き連れ、標高2~3メートルもの氷と雪に覆われたブルックス山脈を越える800キロの移住を開始した。当時も今も陸路はなく小舟で川を上り、末路の原野をそりで進んだ。
移住は何度も往復するなど難儀したが唯一人として不満を言うものはなく、様々なトラブルに見舞われながらも、3年かけての大移住を成し遂げた。明治40年(1907年)の頃であった。そこはビーバーやムースなどの動物がたくさん生息し、川魚も獲れる場所で、「ビーバー村」と名づけた。ビーバーで村づくりが始まったのはフランクが40歳の頃で、まず手をつけたのは生活習慣の改善だ。これまでの氷や雪で作られたイグルーから、暖炉付き丸太小屋でベッドの生活に切り替えた。インディアンの嫌う生肉食を止めさせ、焼いて食べるように改める。難題は「妻貸し」という習慣であったが、これを村の掟として固く禁じた。さらに共存するインディアンとのトラブルを防ぐための「禁酒」を守らせた。その甲斐あってインディアンとの融合も進み、村の人口は300人ほどに増えていった。この偉業に対して大正元年(1912年)頃、アメリカの新聞にフランク安田が成し遂げた移住を「ジャパンニーズ・モーゼ」と称える記事と、もう一つは「インディアンの居住区にエスキモー村ができ、不仲の民族が共存している」という驚きの記事が掲載された。しかしフランクはマスコミに一向関心を示さなかった。飢えに苦しむ同胞と共に、「新たな居住地をつくる」という、生きるための当然の選択であったからであろう。
交易所、学校、教会、郵便局、船着き場を作るなど、フランクは村の要職を一手に引き受けて村づくりに励んだ。やがて飛行場ができ、村で採れる3千枚もの毛皮をロスアンゼルスと取引し、フランクの目の動かし方でロスの毛皮相場が決まるとまで言われた。さらにミンクの養殖をはじめ農場を開き、また困っている人には金を貸し援助した。金鉱発見によって得た大金は一切私有せず、移住への莫大な資金や村の事業と失敗などのため、ことごとく使い果たした。昭和16年(1941年)日米間で戦争が起きると、フランクは敵国人として捕虜強制収容所に入れられた。終戦の翌年釈放されビーバー村に戻った時には78歳になっていた。50代の前半に石巻の兄から帰国を促す手紙が届いた。だがフランクは二度と故郷の土を踏むことなく、昭和33年(1958年)ビーバー村で90歳の生涯を閉じた。フランクヤスダの墓はアラスカ・ビーバー村の小丘に、妻ネビロの墓と仲良く並んでいる。その生涯は遠藤光行著「フランク安田アラスカでエスキモーになった男」に詳しい。平成元年(1989年)アラスカ州議会は、安田の貢献度と人格を讃える議決を行った。「フランク安田はアラスカの原住民を救い、生活向上に大いに貢献し、誰にも優しく接し、特に困っている人にはさらに優しく接してくれた。アラスカの人達があなたをとても尊敬し、敬愛しています」。