今更ながら
偏屈で強情張りのオヤジですが、その裏返しなのか実は無類の寂しがりやでもあります。つい先日も机に向かって黙々とパソコンの画面とにらめっこしていたオヤジが、突然変なことを言いだしました。「ムサシ! お前は俺の欠点を全てのみ込んだうえで、相棒になったのか? それともお互いの性分が合ったためなのか? 」、本当のところを教えてくれ! というのです。まったく突飛な質問だったし、少し眠気がさしていたこともあったので、"両方でしょうね"と、適当に答えましたが、オヤジは不満そうな顔をしていましたが、ただ、「そうか」と一言。後は何も言いませんでした。でも、改めて考えて見るとオヤジはかなり変わった人です。例えば、うっかりして近道を通るのを忘れたことを途中で思いだしたとき、わざわざ引き返して近道に戻るという不合理な行動を取るような人ですが、合理性を追求することを信条としていることを誇りに思っている人です。もっとも、人間は必ずしも合理的な行動を選択する動物ではないこともよく知っているはずです。だから、ボクの答えがそっけないものであったにもかかわらず、喜びも悲しみもしなかったのだと思いました。
つまり、オヤジはボクに正解など求めていなかったのです。ただ、できれば、「相性抜群」とでも答えてほしかったという残念さがほんのちょっぴりあったのかもしれません。でも、今になって考えて見ても、結果的にはボクは正直に答えていたような気がします。相棒であるオヤジとボクの間には、遠慮やお世辞のようなものは全く必要なく、あたかも一人の人間の葛藤のようなものが同じ質量で揺れ動いているためではないかと思うのです。言ってみれば、オヤジとボクは同じ悩みと喜びを多く持ち合わせている似た者同士なのかもしれません。それは上述のように、思いつめて助けを求めるような重い質問をしておきながら、可もなく不可もないボクの返答に対して、何の反応も示さなかったのが何よりの証拠です。もしこれが別の人に投げかけられたものだったら、かなり熱い議論がその後戦わされることになったに違いありません。別の角度から見ても、このボクへの質問への答えは、質問の中にあったのです。すなわち、ボクの答えがどういうものであったにしても、オヤジは正解(当たらずと言えども遠からず)とする用意があったように思います。
ところでお母ちゃんはどうというと、これまた奥が深いが、オヤジのように変化球は決して投げない人です。それだけにストレートに人の心をえぐることがあります。例えば、お母ちゃんがオヤジによく言うことなのですが、「お父さん!皿を持って食べて。お父さん!皿を置いて食べて。」と矢継ぎ早にアドバスをします。それはパンくずをぼろぼろこぼすからなのですが、オヤジは悔しがって"うちは昔からパンは食べないんだ"と応酬する。するとお母ちゃん、"それではご飯もそんなにこぼしていたんですか"。 漫才のような掛け合いが続く。お母ちゃんにして見れば、このオヤジ! 何度言ってもわからない。まったく学習しないと思っているのだろうが、一方のオヤジにしてみれば、いい加減にしろ。飯ぐらい自由に食べさせてくれ! と、いうところでしょう。これがオヤジの好きなやわらかい変化球で攻められるのであれば、聞く耳を持つ気にもなれるというとこでしょうか。お母ちゃんのいいところは、自説を絶対に曲げないところです。しかし、他から見ると「信念」ではなく「残念」です。でもそんな人達が暮らすほど良い空間がわが家なのです。