郷土の偉人-アラスカのモーゼと呼ばれた男『フランク安田』-その1
石巻出身のフランク安田は、危機に瀕したエスキモー部落を救うため、200人を引き連れ800キロもの氷原を乗り越えて大移住を成し遂げた。この偉業にアメリカの新聞は「ジャパニーズ。モーゼ」と驚嘆。北極圏に近いアラスカで新しい村づくりに生涯尽くした安田は、新田次郎の小説「アラスカ物語」で広く知られるようになり映画化もされた。フラン安田の本名は安田恭輔といい、明治元年(1868年)湊村(現石巻市八幡町)で石巻最古の医家安田家の三男として生まれた。恭輔が14歳時に母が病死、翌年父も追うように亡くなった。二人の兄は医学の道を選び、恭輔は三菱汽船の船積みで働き、数年後見習い船員として渡米した。23歳の時、密猟を監視する米国沿岸警備船ベアー号に雑用係として、乗り組んだ。これには船長の信頼を得ていた利府町出身阿部敬介の口利きがあり、一緒に乗船した。
恭輔がフランク安田を名乗ったのはこの頃だ。850トンのベアー号は予想外の寒波のため、アラスカの沖合で氷に閉じ込められてしまった。食料が不足して、歩いて救援を求めるという命がけの役目をフランクは志願した。オーロラの下、果てしない氷原を230キロも必至に歩くものの何も見当たらず、食料も精魂も尽き果てて倒れ込んだ。だが幸運にも猟にきたエスキモーの犬そりに発見され、75キロ先にあるポイントバロー村まで送り届けてもらい、交易所に子細を伝え役目を果たした。フランクは船長の許可を得てポイントバローに残った。ここはアラスカ最北のエスキモー村で、唯一のアメリカ人である交易所のブロアー所長を頼って暮らした。その頃、米国捕鯨船の乱獲で村のクジラ漁が不漁に陥った。祈祷師は不漁の原因はよそ者であるフランクが不漁の原因だと告げた。
ブロワー所長に相談し、少し離れたフラックスマン島の交易所に移るよう勧められた。かねてからフランク(28歳)に思いを寄せていたエスキモーの娘ピロ(16歳)は、一緒に村を出た。その後も村はクジラの不漁が続きフランクが原因でないことがわかり、二人は村に呼び戻された。フランクは英語が話せ、指導力があることから、村のリーダー的立場になっていく。しかしクジラやアザラシの不漁による食料不足に加え、はしかが大流行し、500人のうち120人もの住民がなくなる危機に見舞われ、フランクも幼い女の子を亡くした。村や、妻ネビロからも「この危機から村を救えるのはあなたしかいないのよ」と推され、村の行く末を託されたフランクは、動物が安定して獲れる新たな地を考える日々が続いた。そんな時、アラスカに来たメリカ人鉱山師トム・カーターに出会った。「見つけたら山分けする」という言葉を信じ、フランクとネビロはカーターと金鉱探しの旅に出た。