近ころのオヤジ
オヤジは子供の時から体を動かすことが好きで、学校に行っても勉強そっちのけで、昼休みや放課後に何をして遊ぼうかと、いつも考えていたそうです。そのため、時には疲れが高じて下痢をしたり、風邪をひいたりしていたそうです。その時はしおらしく反省するのですが、少し回復してきて養生していると、今度は、その休息が心地よくてしばらくは症状がまだ続いているふりをして休むというずる賢い子供だったと自戒しています。それから何十年も経っているのに、その癖が抜けないのか、運動好きと過労を交互に繰り返し、最近は特に休養をとることが多くなってきているようです。その結果として、運動量が圧倒的に減少し、今度は、それが原因で不本意な休息を余儀なくされ、またもや健康を害するというサイクルができてしまったという訳です。でも、世界中を見回すと同じようなパターンの人が多いので、これが普通と思えば、あまり気にすることもないのかもしれません。でも、オヤジにしてみれば、かなりショックであまりにも無様なありようをひそかに悔やんでいるようで、慰める言葉も見つかりません。
ただ、お母ちゃんに言わせると、"お父さんはよく頑張った" と、珍しく褒めてくれます。それが何を根拠に言っているのかボクにはよくわかりませんが、たぶん、現在のオヤジは、「歳の割に勉強好きである」ということと何か関係しているような気がします。それは、オヤジがボクにいつもこう言っているからです。「ムサシ、世の中に勉強することぐらい楽しいことないよ!」。正直言って、それが本音かどうかは今もってわかりません。でも、好きでなければ、仕事とはいえあんなに精魂込めて机に向かうことはできないと思います。お陰で、ほんの少しボクも勉強がおもしろくなってきました。してみると、オヤジもボクもいまのスタイルが一番充実しているのかもしれません。そもそも、人は、餓死するか、食べ過ぎて病気になり命を失うか、アクシデントにより絶命するか、あるいは天寿を全うするかのどちらかですよね。オヤジに言わせると、「天寿を全うする」などというのは、所詮後付けの言葉で、いま目を落とそうとしている人の本音とは全く関係ないこと。人生の総決算をすることができるのは本人以外の誰でもない。
だから、そんな世間体のために「天寿を全うするなど、まっぴらごめんだ!」。そういえば、ボクもありていに言えば、犬の平均寿命でしたから、「天寿を全うした」ということになるのかもしれませんが、長年一緒に過ごした家族とわかれるのはとっても悲しかった。そして、家族もまた、ボクと別れることをとても悲しんでくれた。そして何よりもこの家に来てよかったとしみじみ噛締めながら迎えた、最後の瞬間は心地よいとさえ感じました。皆さんは死んでみたことがないので、その気持ちはわからないでしょうが、ボクは一回だけ経験があります。経験者として偉そうに言わせていただけるならば、尊厳を守られたことに対する満足感が体中に満ち溢れたまま生涯の幕が下りました。さらに、その余韻が現在まで続き、オヤジの仕事を手伝えることに生き甲斐を感じています。今のオヤジに処方する薬はないのかもしれませんが、逆療法で難しい問題を持ち込んでみてはどうかと思っています。クイズには弱いオヤジですが、企業が抱えている問題であれば、難しければ難しいほど燃えるのがオヤジですから、きっとお母ちゃんも賛成してくれると思います。