もの(ごと)の価値とは
物の価値の決め方には様々なものがあります。食べ物であれば美味しいこと、道具などの場合は機能や耐久性が優れていること、規格品など機能が一定程度で安定しているものなどは、単位当たりの価格といった尺度が一般的なもののようです。なかなか理解できにくいのが、美術品や宝飾品です。昔からよく言われるように、「高級だから高いのか」それとも「高いから高級なのか」は今もって不明です。例えば、ピカソとゴーギャンの作品ではどちらの価値が高いのかはわれわれには解りませんが、オークションなどの落札価格を見ると、納得するというよりも、「そうなのか!」と他人のつけた価値をあっさり認めてしまいます。ましてや、先日ロンドンのオークション会場で起きた、謎の画家バンクシーの作品が、1億5千万円で落札された後、事前に作者がしかけたと見られるシュレッターにより刻まれてしまったが、落札者はそのまま購入したという。しかも、裁断されたされたことにより価値が上がったというから二度驚きである。
わが家では、オヤジはもとよりお母ちゃんもボクも、こうした話は、話題性という価値からみてもあまり興味がなく、どちらかといえば、少し腹立たしいとさえ思います。物の価値だけでなく、人の能力の価値は様々ですから、その能力が高く評価され、所得に反映されるのは当然のことでしょう。そして、その所得をどんな形で活用するかも原則自由ですから、どんなに高い美術品を買ったとしても、われわれはやっかむことはあっても文句を言う資格はありません。しかし、お金というものは、昔から言われるように"天下のまわりもの"です。つまり、稼いだ金は必ずいつかは使う、そして世の中に流通させることによって、すべての人々に所得を得る機会を与えるというのが、お金を持つことの意味(経済の原則)であると思うのですが、美術品の高騰などにより、ほんの一部の人々の間でしかお金が流通しなくなれば、お金を稼ぐという意味も薄れてしまうような気がします。物の価値が、人によって決められるのであれば、あぶく銭を手に入れて、常識を逸脱したお金の使い方をする人もまた多くの人々によって価値判断をされるべきではないでしょうか。
焼き肉を食べてあしたも仕事を頑張り、ちょっとこだわって好みの車を買う。小さな目標が達成したことで、人にやさしくなり仲間や社会の信頼感を得ていく。このことでさらなる高みを目指して挑戦する。わが家はこうした日々の積み重ねによって安心・安全な暮らしが守られている。負け惜しみであることを重々承知の上で言わせていただけば、こんな暮らし方は人の評価軸によって価値を判断されるものではない。つまり、美術品とは違って、お金では買えないものです。今回、ロンドンのオークションに出品された『少女の風船』の作者バンクシーは、その著書で「アートは世界で数百の人間だけが発言権を持つ。美術館に出かける君は大金持ちのトロフィー棚を眺める旅人に過ぎない」と語っている。これは、美術市場の在り方に一石を投じた行為ではなかったか、という見方がある。これはあくまでボクの私見ですが、高額で競り落とした落札者は、美術館にその作品をレンタルして入館料のなかから、落札価額を回収してみてはいかがでしょう。そうすれば、その絵の真の価値(経済価値)が明らかになると思うのですが?