からす組隊長 細谷十太夫{その3 ゲリラ戦法で新政府軍を悩ませる(3)}
9日、旗巻の羽黒堂椎木山で夜襲戦に出たが、新政府軍の夜襲隊と遭遇して戦闘となり、明け方まで激戦が続いた。ついに10日、駒ケ嶺に続いて旗巻峠も敗れ、仙台藩は降伏した。十太夫は旗巻から金山に引き揚げて諸将と酒宴を張り、「梓弓ひきてゆるすも国の為め 心たゆむなもののふの道」と一首を本陣の柱に貼った。降伏に不満のからす組は、雲居国師が開山した仙台西部の蕃山にある大梅寺に一時立て籠った。近くの佐藤家は米、野菜を毎日届けるよう命じられたが、隊員の殺気立った異様な雰囲気を恐れ、家人は寺まで上らず中門の処へ置いて逃げ帰った。奥羽越戦争で同盟側6575人、内仙台藩は1207人もの戦死者を出した。仙台藩はからす組を先頭に立てて夜襲し、攪乱した後に藩兵が攻撃する戦法をとった。そのため藩兵に死傷者がなかった時でも、からす組には必ず何人かの死傷者が生じ、終戦までに20余人の戦死者を出している。
9月末頃から降伏に反対する榎本武揚隊や諸藩の脱走兵らが艦隊を組んで石巻に集まってきた。榎本は政府軍との徹底抗戦の構えをとり、土方歳三指揮のもと、牧山から渡波にかけて旧幕府軍や新選組、額兵隊ら4千兵を要所に配置して臨戦態勢に入り、石巻は大戦場になる危機に直面していた。藩は無用の戦いを避けるため、藩主の信任厚い十太夫に戦後処理を命じた。奔走中の10月2日、参政武田杢助(もくすけ)、松倉良輔らと石巻へ行き、榎本隊長や大島圭介に出艦の工作をした。条件として求められた金と大量の酒、味噌などを藩から運んだが到底足りず、不足の品を石巻の毛利屋、勝又屋、三河屋より自費での協力を得て、12日、艦隊を立ち去らせた。その数時間後、新政府軍の本隊2400兵が突入してきた。石巻が戦禍にさらされる危機一髪のところを救った。しかし、額兵隊を逃し、藩の金穀を与えたとして新政府軍に捕らえられた。斬られる寸前に藩の助命運動で斬罪は取り止めとなり、「敵ながらアッパレな勇者」と言われ釈放された。
降伏後藩論が変わり、奉行の但木土佐、坂英力と葦名靱負(ゆきえ)、大槻盤渓(ばんけい)ら13人が捕らえられた。戦争中藩内で最も活躍したからす組であったが、旧勤王派の重臣からは厄介者扱いされ、加美郡王城寺村へ追いやられた。翌2年4月隊員をつれて仙台へ戻ると、旧佐幕派を弾圧する仙台藩騒擾事件が起こっていた。捕縛者リストに名が挙がっていることを知った十太夫は地下に潜行し、市内の侠客の元や料亭を隠れ歩き巧妙に捕吏の手を逃れた。隊員に平等に分配して今後の資金とさせ、白河以来生死を共にしてきたからす組を解散した。その後の細谷の活躍は、一層目まぐるしいものとなる。数々の武勲を立てながら仙台騒擾で罰せられ、家跡と家財を没収された十太夫は、新政府が仙台藩に割り当てた日高国沙流郡開拓のため、3年、三好清篤に従い司長として元足軽など146人を率いて北海道に渡った。ここへ箱館戦争で降伏した額兵隊長星恂太郎ら85人が保釈され、移入して開拓に励んだが間もなく仙台に戻された。