からす組隊長 細谷十太夫{その3 ゲリラ戦法で新政府軍を悩ませる(1)}
白河を奪われた悔しさを口々に言うのを聞いて、学問はなくても力には事欠かない無頼たちで一隊を仕立て上げることを思いついた。さっそく人集めのため須賀川に行き、柏屋という妓楼を借り受けた。表に「仙台藩細谷十太夫本陣」と大書した貼り紙を掲げ、付近に人を出して誰でも来いと塀を募ったところ、近郷近在から集まってきた博徒や土方、百姓、猟師らで総勢69人にもなった。十太夫は寄せ集めたばかりの素人集団では、西洋式装備の新政府軍に対して勝ち目がないと判断し、白昼戦を避けもっぱら夜陰に乗じて奇襲する以外にはないと考えた。
そのため夜戦に備え黒染めの同袖、義経袴と黒づくめの装束を妓楼の女たちに作らせ、武器は長刀と槍を与えて接近戦の切込み戦法をとることにする。隊を1番から6番までの6小隊編成とし、小隊長には各地宿場の顔役を充てた。隊名を「衝撃隊」と名付けて藩に届け、隊旗には3本足のカラスを描いたのを用い、素早く動き回る姿から「からす組」と呼ばれるようになる。少々の訓練をして隊伍を組み堂々と行進した様は、あたかも忠臣蔵夜討ちのいでたちのようであった。奥羽の関門である白河口には、仙台藩から援軍が続々と送り込まれて5千人余人の軍勢となり、からす組はここに編入された。
5月21日十太夫は、白河の産地にある小田川駅七曲で新政府軍と衝突した。からす組6小隊に「敵はいかに薩長土肥の精鋭たりともいささかも恐れる事なかれ、かねて訓練したとおり敵軍は銃隊である、銃は遠方に利あれども接近戦には刀槍に利あり、たとい一人や二人討たれるとも我が号令の聞こえる限り斬り入れ」と号令し、隊員67人が抜刀して一斉に斬り入った。敵弾は頭上を飛び越え一人として弾に当たるものはなく、接近戦に持ち込んで多数負傷させ、敵軍を敗走させた。これがからす組の初戦となる。26日の白河奪還第一次攻撃はじめ、十太夫の率いるからす組は同盟軍の先鋒となって戦い、6月1日、8日、12日15日、20日、23日の戦いも、闇夜に槍や刀でゲリラ攻撃を続けた。