災害に強い街づくり
最近は、大きな都市でもイノシシやサル、クマなどが出没し人にけがを終わせるという出来事が多くなっているように思います。このような動物たちにしてみれば、人間が自分たちの生存領域に踏み入ってきたことが原因だ、というかもしれない。一方の人間は、せっかく手塩にかけて育てた野菜や果物を傍若無人に食い荒らしたり、道端で折あしく彼らと出くわしてけがを負わされるという被害意識を持っている。どちらの言い分にも一理あるだけに、中々抜本的な対策が打ち出せないのが現状です。一昔前までは、里山といういうなれば一種の軍事境界線のようなエリアがあって、お互いにあまり自己主張しないという不分律が働いていたため、わりと大らかに暮らすことができたように思うのですが、最近はこの里山が縮小され、かつての「エリア」が「線」になってしまったため、我先を争って領土拡張を図っているかのようです。人間の側からいえば、迷惑な存在ということになるのでしょうが、彼らに言わせれば、「誰に断って山を切り開いたのだ!」という被害者意識を持っているかもしれません。
もっともと、議論というものは、論理的主張のように見えるが、しょせんは自分の立ち位置を是として、他を屈服させるための詭弁であるわけですから、百年や二百年議論したところで理解しあえるような説得力があるわけではない。かといって、安易な妥協では、多くの病巣を残したままにしかならないので、例え議論の結果、合意したとしても、抜本的な解決に至るはずがない。ある経済学者は、「所詮人間は自分をかわいがるもの。だから自分の利益を追求するためにふるまえば、やがて見えざる手によって、その活動が適正なものに収束される」と説いている。しかし、「こうした理論が功を奏すのは極小さな「村社会」の中でのことだ」と、異を唱える学者もいるようです。確かに、グローバル化した現代社会では、誰も責任を負いたがらない社会的費用を、どのような割合で負担し合うかが大きな問題になっています。つまり、責任を負うべき人は必ずいるはずなのに、責任者がいないのです。同じようなことが、動物と人間の関係にも当てはまるのではないでしょうか。
人間と動物が良好な共存関係を保つには、適正な保安距離をたもちつつ、お互いの存在を尊重する体制を作ることです。それには、まず、昔あった里山の価値を見直し、これを適正に管理できる「村社会:コミュニティ」を再構築することです。こうした考え方は、「災害に強いまちづくり」にもまた通じるところがあるように思います。ある日突然、10mの高さの津波が押し寄せ来れば、12mの津波に耐えられる頑丈な防潮堤を造る。これは確かに10mの防波堤より20%安心が増すような気がします。しかし、大自然の気まぐれは、こちらの懐具合に合わせて津波の高さを加減しているわけではなさそうです。だとすれば、ハード面の防災対策だけではなく、大自然とうまく付き合うという考え方も必要かもしれません。そうすればこちらの魚心がわかり、水心を持った津波も少しは遠慮してくれるかもしれませんね。ただし、そのときは、"海をあまり汚さないように"という条件ぐらいは付けられるかもしれませんが。これを当然とみるか不可能と見るか?