石巻の救世主、そして北海道開拓、西南戦争と日進戦争、龍雲院住職としての最期
十太夫は製塩事業にも乗り出したが、失敗して仙台へ帰った。明治10年の西南戦争で、警視隊小隊長として参戦、4月には陸軍の第三旅団小隊長となり十数回の転戦をして勇名を馳せた。この時仙台藩士700人は官軍となって参戦し、薩摩の賊軍に対し、「戊辰の仇」と叫びながら真っ先に切り込んでいって存分に奮戦し、勇猛さを如何なく発揮した。戦後帰仙してからも忙しく、政宗の居城であった若林城への宮城集治監建築委員、四ツ谷用水の改修工事管理監督、失業士族対策事業で加美郡王城寺原864町歩の開拓に就いた。13年には石巻の北上運河の両岸に広がる湿地開墾を太政官に請願し、280町歩と金3万円を貸与されて開墾場長となり、60人の士族を集めて蘆や葦のしげる地に入植して開墾に励んだ。数々の辛酸をなめながら、17年遂に田畑となり石巻大街道となった。15年、北海道に渡り未開地の幕別(中川郡)へ入植し、ここに新しい故郷をと願い開墾に励みながらアイヌの農業指導に長年勤め、同僚の武山士平に引き継いで仙台に帰った。十太夫の手記によると日本の将来のため、南方進出を提唱している旧仙台藩士横尾東作に共鳴し、20年南洋諸島の探索に乗り出した。27年、日清戦争に千人隊長という軍夫の隊長となって、第二師団と共に満州、台湾と転戦し多くの戦功を挙げた。
ところが日清戦争の戦勝で国中が湧きたっていた29年6月15日夜8時、宮城県の沿岸部が20メートルもの大津波に襲われた。岩手県の釜石をはじめ東北の太平洋沿岸全域で1万8千人もの犠牲者をだした三陸津波である。十太夫は台湾から帰国して間もなかったが、直ちに100人の人夫を集め2週間もしないうちに被災地に向かった。各地では作業員不足が大きな問題となっており、十太夫の迅速な活躍が大きな助けとなった。30年、発起人となり「額兵隊見国隊戦死弔魂碑」を榴ヶ岡の天満宮に建立し、箱館戦争での戦死者86人の霊を慰めた。戦後33年にあたり、激戦場であった大内村青葉と福島県初野村との境である旗巻高台に、細谷十太夫が揮毫した「旗巻古戦場之碑」が建立され、戦場に散った多くの霊を慰めた。自分が生き残っていては、戊辰戦争で死んだからす組の者たちに申し訳ないという思いが強く、戦死した将兵の霊を弔うため仏門に入った。横浜の西有寺で修業して得度を受けて名を「鴉仙」と改め、さらに世田谷の剛福時で修業して仙台に戻った。36年、敬慕する海防の先哲者林子平が眠る龍雲院の荒廃を嘆き、無住の同院八世住職となって寺の再興のため昼夜問わず奔走尽力した。
林子平はロシア南下による日本植民地化の脅威を説いて「三国通覧図説」「海国兵談」を著し、蝦夷地開拓と江戸湾の海防を強調し鎖国政策の転換を迫ったが、幕政批判として弾圧され不遇のうちに亡くなった。子平の考えは島津斉彬、吉田松陰、坂本竜馬らに影響を与え、長州藩は藩校の兵学教材書に「海国兵談」を採用した。十太夫は林子平の墓を守りながら、士族の救済と戦死者の供養を行ってきたが、40年5月6日、「宵越しの銭ももたずに眠りけり」の一句を残して没した。行年68歳。細谷の人生はあまりにも波乱万丈であった。大正5年に「細谷地蔵」が、昭和3年には「細谷鴉仙和尚遺徳碑」が龍雲院に建立された。昭和4年、大仏次郎が小説「からす組」を新聞に連載し、翌年には早くも「疾風からす組」として映画化され、阪東妻三郎が細谷十太夫を演じて好評を博した。貧しかった生い立ちから、分け隔てない庶民的な人柄で、商人や農民、各地のやくざ、土方、馬方にいたるまで信頼を集めていた。仙台藩は多くの藩士が活躍したが、中でも細谷十太夫はまったく異色にして稀有な人物であった。どちらかといえば藩内では下位の身分で微禄、学も武術も人並み以下のはみだしものであったが、国を守る一心で一隊を仕立て先鋒となり、政府軍の度肝を抜きつつ最後まで戦い抜いた。さらに戦後の復興に奔走した数々の事績を辿れば、まさに第一級の人物であり、郷土の誇りとするところである。