からす組隊長 細谷十太夫{その3 ゲリラ戦法で新政府軍を悩ませる(2)}
この頃、他藩の脱藩者16人が加わって、からす組は8番小隊総員92名となって気勢はいよいよ盛り上がった。「仙台烏組と称するもの、博徒を招集するものにして、もっとも乱暴を極む」と新政府軍の記録にある。しかし6月16日、新政府軍が3隻の軍艦で平潟港(茨城県の最北端)に数千人の増援兵と最新の大砲を送り込んで、強力な戦力となると戦局が一変し、同盟軍は苦戦を強いられるようになる。そのため7月中旬に同盟軍が白河城の奪還を放棄した後も、からす組は白河で戦い続けたが、窮地に追いやられ十太夫は戦死を覚悟したこともあった。
13日、浜街道の要所磐城平藩が落城すると、三春藩は同盟から離脱し、新政府軍に寝返った。細谷隊は須賀川の戦闘に引き続き、二本松でも仙台藩の先兵となって敵の大部隊と戦うも多勢に無勢。さらに三春藩に背後にまわられ、部下3人を失い近くの山に逃げ込んだ。28日、仙台藩今助の率いる聚楽隊が細谷隊に加わり、三春藩への攻撃を開始した。多くの船上でからす組は奇襲戦法で命知らずの活躍をし、その勇猛さで新政府軍を混乱させ「細谷烏と十六ささげ(棚倉藩誠心隊)、なけりや官軍高枕」と悩ませた。白河、二本松、浜通り戦など、細谷の行く所では同盟軍の士気が大いに盛り上がった。しかし、極地戦ではからす組の活躍によって勝利を得るものの、双方の戦力の差は如何ともし難かった。
十太夫はその軍功を藩より賞せられて副参謀に抜擢され、世録100石を加増された。8月4日、相馬藩もついに同盟を離脱して新政府軍の先鋒とった。相馬藩と国境を接する旗巻峠を破られると、一気に仙台まで進撃される恐れがあり、仙台藩は駒ケ嶺に2千人余人、旗巻峠には1千2百の兵を配置して、背水の陣を布いた。からす組は転進を命ぜられ、昼夜兼行で9日駒ケ嶺に到着して旗巻の陣営に加わり、駒ケ嶺の奪還戦に臨むと、ここでも死闘を重ね藩境死守に活躍した。9月5日、十太夫は戦死した部下を弔うために出家して隊員と荒地開拓を決心し、藩主に暇乞いをした。慶邦はその戦功をねぎらい、自筆で「是れこそは大和魂武者のたゝかふことにいさほ見にけり」との和歌と、「我多くの家中の内に一人武功なるを以て武一郎の名を賜う」という書を下して慰留したため、十太夫は直ちに戦場に戻った。