政宗の国づくり(その2)
大坂夏の陣が終わり、安定した徳川の時代が訪れると、平城と山城を組み合わせた戦国型の城郭配置「二極型城郭配置」から、一極型に変化していきます。初めは北目城と仙台城、後に若林城と仙台城という組み合わせが二極型です。若林城は1628年に築かれ、政宗の隠居所といわれましたが、これは南への備え、つまり徳川氏への備えです。しかし、1636年の政宗の死後、遺言により破却されてしまう。忠宗(2代藩主)は徳川家に対抗できる力がないと見たわけです。徳川氏への備えとなる城の存在が、伊達家を取り潰す絶好の口実を与えてしまう。若林城の存在は、政宗だからこそ徳川と対等に渡り合えたという証左です。若林城が破却され、一極型となったことで仙台城の在り方も変わります。
初期の仙台城は本丸と東丸(後の三の丸)で構成されていました。そこに若林城で使っていた建材を用いて新たに二の丸を整備し、役所としての機能を持たせた。仙台城は統治を重視した近世型の城郭に生まれ変わっていきます。そうした時代状況の中で城下町が形づくられていくわけです。メインストリートである奥大道を西に寄せて城下に引き込んで新しい道路を整備し、並行して宿場の整備も進めています。出羽に至る東西の交通軸についても、同じように宿場を整備していきました。城下は領内の経済の中心地。宿場も市が立つところで、地域の経済的拠点となる場所です。城下町も宿場も同じですが、新たにつくる際には人を集めなければなりません。
昔は領主が民衆を無理に移住させたかのような見方がありましたが、人は何か誘因がなければ動くものではありません。城下町でも宿場町でも、今でいえば不動産税に当たる地子(とし)を免除して人を集めたのです。現代でいえば特区のようなものですね。国づくりは領主と民衆の双方にメリットがなければ成り立つものではないのです。一般城下や宿場への入口は鍵型になっていた、敵が攻め込みにくく、敵を迎え討てるようにつくられています。仙台城を見ると、奥州街道を南から入るときには4つのクランクがある。いわゆる「四折れ」です。それに対して北側のクランクは2つ。つまり「二折れ」。いかに江戸方面からの進入路の防衛に心を砕いていたかがわかります。
若林城の建設後、さらに備えが手厚くなる。奥州街道の南からの進入路は「四折れ」から「八折れ」に倍増します。それと同時に町域が拡大されていく。町づくりと徳川氏への備えが並行して行われていたのです。仙台藩領の南部、中央、北部に要害が集中していたのです。領内の要害の配置も目を引きます。南は徳川氏への備え、北は藩境ですから当然です。では、中央部は何に対する備えか。かつて威勢を誇ったものの豊臣秀吉によって滅ぼされた大崎氏、葛西氏の遺臣対策です。政宗は大崎・葛西一揆を鎮圧した。私も大崎氏や葛西氏の遺臣の系譜にある人の政宗に対する複雑な心情を聞いたことがあります。現在でもそうなのですから、当時の状況はもっと大変だったでしょう。