政宗の国づくり(その3) (2057)
政宗は人材活用にも長けていたといわれている。譜代の家臣だけでなく、有能な人材を外からブレーンとして連れてきました。人材を得ることに心を砕いていたんです。よく言及されるのが、かつて毛利氏の家臣だった川村孫兵衛。北上川の治水など土木技術に長けた土木巧者です。そのほか、外部から塩田技術者を招き、東名(東松島市)や鳥の海(亘理町)などに塩田を開きました。また、柳生宗矩の仲介で、大和の榧森(かやもり)又五郎を呼び寄せ、城内で酒造りも行わせています。外部から人材を獲得するだけでなく、上方から招いた絵師と地元の絵師に一緒に仕事をさせるなど、人材育成を図っています。特に目を引くのは支倉常長を派遣した慶長遣欧使節でしょう。当時、南蛮貿易の主要な港は九州に集中し、江戸や東北はその範囲外でした。
スペインやポルトガルの植民地だったフィリピンなど東南アジアから遠かったうえに、航海の難所も多かったためです。しかし、16世紀半ばにフィリピンとメキシコを結ぶ太平洋横断航路が開発されたことで、仙台領に貿易港を設け、メキシコ経由でヨーロッパと交易できる可能性が開かれました。常長の派遣は、貿易を活性化させるために家康と政宗が組んだものだったのです。ちょうど幕府の禁教令が出されたころでしたが、これは布教を許さないというもので、宣教師が船に乗ってこなければいいのです。結局、仙台領を「布教特区」とし、規則を限定することで折り合ったのではないか。しかし、宣教師を植民地化の先兵とするスペインは了解しなかった。その間にイギリスやオランダが接近し、一方で幕府は長崎を直轄の貿易港としたことで機運が遠のいてしまいました。
しかし、慶長遣欧使節は領内に大きな経済効果をもたらした。サン・ファン・パウティスタ号の建造では、大量の木材が調達されました。木を伐りだし、輸送するなどの仕事が発生し、膨大な雇用が生まれました。大工800人、鍛冶700人、人夫3000人が使われたことで、膨大な人件費や食糧費、住宅需要などが生じたのです。ヒト・モノ・カネが動けば地域経済が活性化します。建造地となった牡鹿半島は1611年の慶長奥州地震による津波で被災した地域です。遣欧使節は地震の前から計画されていたものですが、結果として被災地に経済効果をもたらし、復興に資することになりました。災害を受けて使節派遣を延期するという選択肢もあったでしょうが、これを乗り越えてでも派遣したところに政宗の国際貿易による富国戦略への強いこだわりが読み取れます。