体罰をめぐる論争
教育現場では、いじめの問題が相変わらず後を絶たない。最近はこれに加え先生やクラブ活動の監督などによる体罰も大きく取り上げられています。先日、世界的トランペット奏者である日野皓正氏の中学生へのびんたが物議を醸しだしています。今のところ、これは体罰であるから、好ましくないとする反対派が多数を占めているようですが、擁護する意見を持っている人もけっこういるようです。反対派の意見は、概していうと次のような理由を挙げています。(1)「暴力=体罰」であり、どんな場合でも許されない。(2)教育的な指導の一環という意味合いもあるだろうが、それを容認すると、単なる暴力と区別がつかないので、全てを体罰と認定せざるを得ない。(3)体罰(暴力)を用いなくても効果的な指導はできる。
一方の容認派は、(1)どんなに熱心に指導しても限界があり、時には「愛の鞭」として体罰を使わなければ、真の指導はできない。(2)体罰と単なる暴力の区別がつかないからといって、全てを暴力にすると、指導されるものが、「殴るなら殴ってみろ」という態度をとり、現実に暴力をふるうと不利になるため、指導者は本当の「愛の鞭」も封じ込めてしまう。(3)多少痛い目に合わなければ、物事の良し悪しを判断する力がつかない。当然、このほかにも、両者の言い分はたくさんあるでしょうが、これらの意見は、いずれもどちらかの考え方を法律や規則で採用すると、必ず弊害が生じてしまうということに他ならない。結局は、「加害者と被害者」の関係か、あるいは「よき師弟」関係なのかによって、判定するほかない。
オヤジの経験でいうと、たいして痛いわけでもなかったが、思い出すと、今でも苦々しい先生の対応もあれば、体がぶっ飛ぶような暴力でも、あの指導があったからこそ今の自分がいると思える、ありがたい体罰もある。この違いは、やはり先生がどうしてあんなに熱心に指導してくれたのか、ということである。それから大事なことは「叱る」のか「怒る」のかも重要な要素であるという。この言葉の違いを理解するには、その使い方でわかるとも言っている。「お前のことを先生が叱っていたぞ!」とは言わないが、「おまえのことを怒っていたぞ!」とは言う。つまり、「叱る」は相手に気づきを与えることを目的にしているため、先生が生徒を直接指導しているときの行動なので、過去形で表現するのはおかしい。それに対して「怒る」はただの感情をぶつける行動なので、間接的に伝えることは可能である。ちなみに、ボクは叱られたことはあるが、怒られたことは一度もありません。