政宗の国づくり(その1)
伊達62万石の城下町として栄え、東北を代表する都市として発展している仙台ですが、なぜ政宗は仙台を拠点に選んだのでしょうか。東北大学東北アジア研究センター教授・センター長、東北大学災害科学国際研究所初代所長を経て、現在宮城学院女子大学長を務めておられる平川新氏の研究によれば、政宗の国づくりに対する考え方が理解できる。政宗が仙台城築城に乗り出す前に拠点としていた岩出山は、陸奥を南北に貫く幹線道である大道から西に少し外れる位置にあり、海からも遠かった。仙台は交通の要地で立地条件が良い。
南北を走る奥大道だけでなく、東西を結ぶ複数の交通路が交差する地点にあるうえ、河川と海をつなぐ舟運の便にも優れていました。岩出山を上回る地の利があったのです。政宗は地名を「千代」から「仙臺」に改めます。不老不死の仙人が住む悠久の場としての仙臺です。政宗の「場」に込めた思いが読み取れます。仙台城は青葉城や広瀬川、滝の口渓谷など地形を巧みに利用した天然の要害といわれているのも、その一つの表われです。政宗は1600年7月末、かつての国分氏の居城で、すでに廃城となっていた千代城を再興したいと徳川家康に願い出ます。
そして仙台城の普請が始まったのは1601年1月。関ヶ原の合戦(1600年9月)の直後で、上杉氏との緊張状態にある中での城普請でした。上杉氏に対する軍事拠点としては平城の北目城(仙台市太白区郡山)がありましたが、もう一つの軍事拠点が欲しかったのです。平城と山城を組み合わせるのは、戦国大名に一般的にみられる構想です。平城だけでは守りには十分ではありません。青葉山に城を築くことは、いざ攻められるときに逃げ込める「詰めの城」だったわけです。かつて伊達氏が拠点とした館山城(山城)と米沢城(平城)の組み合わせです。