200年前に世界一周した宮城県人(その5)
途中左太夫と清蔵が病気になり、トボリスクからイルクーツクに戻された。また、ペルミで銀三郎が高熱をだし落伍してしまった。それでも一行はモスクワで一泊し、4月末(6月初め)にぺテルブルグに到着する。そこで、省務大臣ミヤンツェフ邸に滞在するが、その間、津太夫たち6人は帰国を希望し、先にロシア正教に改宗していた善六、辰蔵、民之助、八三郎の4人は残留を申し出た。
それから2週間後、一行は皇帝アレクサンドル一世に謁見する。前もって仕立ててもらった日本風の服装で、髪形も月代(さかやき)を剃っていた。皇帝が帰国の意思を確認すると、茂次郎と巳之助が意思を翻して残留を申し出、寒風沢の津太夫、左平、宮戸室浜の儀兵衛、多十郎の4だけが帰国することになる。皇帝も4人の肩に手をかけ、「帰りたいと思うのはもっともだ」といった。
ぺテルブルグ滞在の間、ブラネタリュウムを訪れたり、芝居や博物館、病院、孤児院なども見学した。ピョートル大帝の騎士像を見た津太夫たちは、「祟りをなした白蛇を殺して民を災難から救った英雄」と報告する。その頃イギリスからナジエージダ(希望)号がクロンシュタット港に着いた。西暦1803年の7月末、津太夫たち4人は残留する者たちと別れ乗船する。善六も通訳して乗船することに決まった。