200年前に世界一周した宮城県人(その4)
吉郎次の墓は明治34年にイルクーツクを訪れた日本人によって発見され、当時の北海道新聞で報じられました。イルクーツクでの生活は8年にも及ぶので、その間、儀平は小間物を売って儲けた金を元手に貸金業を営み、大成功したということです。また、左兵衛はバイカル湖に漁に出て、中央アジアの少数民族の生活などを見聞して記録に残しています。
当時のロシアは、植民地経営に大きな悩みを抱えていた。それは、ロシア領アメリカ(アラスカ)への物資の補給と、そこで得られる毛皮の販売ルートの確保でした。海軍大尉クルーゼンシュテルンは、バルト海から大西洋、太平洋を経由して物資を運び、毛皮をアジア方面に輸出してアジアの物産をロシアに持ち帰るという世界周航計画を提案しました。
ここにアラスカ一帯の開発・経営を独占していた露米会社の取締役ニコライ・レザノフが提案する日本への使節派遣が追加されることになり、若宮丸漂流民は世界周航の船に乗って帰国することになったのです。それは、享和3年3月(1803年4月)のことで、13人の漂流民はイルクーツクを出発しました。馬車は休みなしで走り、食事も車内でとるという強行軍でした。