200年前に世界一周した宮城県人(その9)
多十郎と儀兵衛の菩提寺は室浜の観音寺で、多十郎の墓の隣に儀兵衛の供養塔が建てられている。寒風沢の津太夫は、帰郷後すぐに石巻の米沢屋を訪れ漂流の顛末を報告した。石巻の禅昌寺では、寛政11年に若宮丸遭難者の法要が営まれ、供養塔が建てられた。津太夫と左平はその後に、日本とロシアが北方で衝突するに当たり、ロシアの事情について話したものと思われている。
津太夫は文化11年(1814年)に、左平は文化12年(1829年)にこの世を去った。菩提寺は浦戸寒風沢の松林寺で、塩釜市在住の加藤覚さんは、津太夫の位牌を管理している。加藤さんは、『「中学校時代に、郷土歴史家の三原良吉さんの講演で、「津太夫の位牌を加藤家が管理している」と聞いて家を探したところ、津太夫親と書かれた位牌を発見しました。
そこで津太夫について少し調べ、作文を発表しました。正直のところ津太夫といわれてもピンと来ないという感じですが、最近は他県の方々も関心を持ってきてくださりうれしく思います。』と話しています。塩釜市の地元の人たちが津太夫と左平の偉業をたたえて寒風沢に建てた案内板は、津波に流されましたが、室浜にある儀兵衛と多十郎のロシア漂流碑、石巻市の禅昌寺にある供養塔は無事でした。(このシリーズは高橋寿之氏HP「津太夫の世界一周」を参考にしました。)