200年前に世界一周した宮城県人(その8)
12月17日(1805年1月17日)、多十郎が口に剃刀を突っ込んで自殺を図った。この事件を機にレザノフはそれまでの姿勢を改め、漂流民の引き渡しを優先するようになった。文化2年1月、幕府側は正式にロシアとの通商を拒否するという通達を出した。嵐で破損していたナジェージダ号の修理も完了し、日ロの会談は終了した。津太夫たちは長崎に帰省してから半年にしてようやく日本側に引き取られた。
この時のレザノフは津太夫たちに対し、「再開することは望めないが、死後あの世でまた会おう」と涙ながら声をかけたという。12月20日(1806年2月8日)、江戸に送られた津太夫たちは仙台藩主伊達周宗の謁見を受ける。自殺未遂の多十郎は病気のため出席せず、津太夫、儀兵衛、左平の3人だけがこの場に臨んだ。仙台藩医の大槻玄沢はこの謁見の場に出席し、その後、津太夫たちから聞き取り調査をすることになった。
その結果をまとめたものが「環海異聞」十五巻である。長い取調べが終わり、文化3年(1806年)4人の漂流民たちはようやく故郷への帰路についた。寛政5年に船出してからすでに13年の月日が経っていた。室浜の多十郎は帰郷して間もない4月に病死した。その子孫にあたる奥田氏は、多十郎が持ち帰ったラシャの服を保管し、現在は奥松島縄文村に展示されている。同郷の儀兵衛もそのあとを追うようにして、その年の9月に他界した。