さくらの花びら散るたびに
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」。この句は古今和歌集に収録されている短歌で、読み手は在原業平朝臣です。そして、その内容は、「もしも世の中にまったく桜が無かったなら、春を過ごす人の心はどれだけのどかでしょうね。」という反実仮想を意味しているのだそうです。つまり、「世の中に桜がまったくない状況を想定し、桜がなかったら「咲いたかな」「もう散るのかな」と思う煩うこともなく穏やかに過ごせただろうと思う。でも実際には桜はあり、なんとも悩ましい想いをかき立てている。その複雑な心情を通して桜の魅力、春の悩ましさを描いているのだそうです。一方、江戸中期の俳人・大島蓼太の句に、「世の中は三日見ぬ間の桜かな」というのもあります。こちらは、「三日見ないうちに散ってしまう桜の花のようなものだ。世の中の移り変わりが激しいことの例え」ですが、「三日見ぬ間(の)」が「三日見ぬ間(に)」という説もあるようです。たった一文字違うだけで印象がかなりかわるものですね。
ボクもオヤジも桜の花を人一倍愛でるほどの風流人ではありませんが、二つの句の共通点や微妙な違いが何となく分かるような気がします。共通点は、"つい先日まであんなにきれいに咲いていた花が、三日ほど見ないうちに散ってしまった"という残念な気持ちが強く表れていることでしょう。もっとも、前者の方はその気持ちをストレートに表現し、後者の句は半ばあきらめの境地から、少しすねた表現をしていますが、いずれも、桜の花が早々と散ってしまうことを嘆いていることが伺えます。違っている点は、前者は「桜の花はどうしてこんなに早く散ってしまうのだろう。どうすることもできないのであれば、いっそのこと桜などない方がましだ! と、感情をぶっつけています。一方後者は、桜というものはそうした無上のものだとあきらめた上で、桜の花に限らず世の中というものは、すべからくそうしたものだ! と、悟りきったような表現をしているところでしょうか。しかし、その実、未練がましさも垣間見えます。元々日本人はこうした奥深さを感じさせる表現を好んで使う傾向があるように思います。
武骨者のオヤジには、こうした文学的表現は似つかわしくはないように思いますが、それでも、「桜の開花を待つ心」「あっという間に葉桜になってしまったときの寂しさ」は人並みに感じるものがあります。それはたぶん「桜の花」だけの話ではないからでしょう。例えば、クリスマスやお正月なども、待っているときはなかなかその日が来ないのに、やっと来たかと思うと、あっという間に過ぎていく。土曜日や日曜日も同じですよね。だから、大きな行事の時の前後には、その余韻を残す小さな行事が用意されているのではないでしょうか。改めて考えて見るまでもなく、「ある特定の日が早く来るように願うということは、その日が早く去っていくことを願う(又は認める)のと同じことですよね。つまり、その特定の日が過ぎて行かなければ、その後に控えている別の特定の日(楽しみ)がなかなか来ないように願うということになるわけです。そんな矛盾を抱えながら日々生きているのが人間(いや実は動物も同じ)です。もしかすると、桜の花は、「楽しみ」「苦しみ」は交互にやって来ることを"我が儘一杯の人間"に教えているのかもしれませんね。