さくらの花も、間もなく満開
ボクがこの家にやってきてから、早いものでもう27年になろうとしています。戸籍を向こうに移してからもかれこれ14年近くになりますから、随分と長い年月が過ぎ去ったことになります。ボクは色彩の識別が苦手なので、さくらの花の本当の色はいまだによくわかりませんが、花の香りや華やいだ雰囲気は大好きです。特にオヤジと散歩に出かけたとき、花見に訪れた人たちが歓声を上げたり、楽しそうにご馳走を食べたり、お酒を飲んだりしているのを遠目にみているのが好きでした。今年もその季節が巡ってきたことになるわけですが、27回目とは思えない感動を覚えるのはなぜでしょうか。さくらの木は、季節を知らせる役割を実直に果たしているだけなのかもしれませんが、ボクたちの心にはより複雑な想いを投げかけているような気がしてならないからです。さくらは、確かに人の心をうきうきさせます。しかし、オヤジもボクも、桜の花の芳しさを心から満喫することに後ろめたさを感じているからでしょうか。インターネットの発展により、世界の時間距離が驚くほど縮まっています。しかし、実際の地理的距離は昔のままです。このギャップがよりもどかしさを増幅させているのかもしれません。
でも、満開になったさくらの花は、あっという間に散ってしまいますから、見てみぬふりをするのはかえって不自然です。ここは、満開の桜を思う存分満喫して、地球の裏側の人達にも一服の清涼剤として届けてあげましょう。そして、一日も早く平和な日常をとりもどし、それぞれの"お国自慢"に花を咲かせましょう。でも、その日が来るのは特定の権力者の心変わりを待つのでは、いささか心持てない気がします。お互いの主義主張が異なるからこそ、多数決というルールが認知されているわけですから、みんなが声を上げることでしか、正義を勝ち取ることはできません。そのためには、自らの手で情報発信し、真実を突きとめそれぞれの意思を決定する必要があるでしょう。もちろん、フェークニュースも飛び交う今日、情報を精査するのは手間がかかるでしょう。でも、収集した情報を精査し、「フェイク」と「真実」の間のギャップを埋めるのは推論です。今や、他人の意見を鵜呑みにして、間違った判断をすれば、自分の人生に大きなダメージを受ける時代です。何事も対岸の火事と侮らずに、自分事として考える必要があると感じています。
オヤジに言わせると、その昔は「沈黙は金なり」といって、不用意に発言すると災いは自分ばかりでなく、一族郎党にまで及び、結局は悪人の烙印を押されてしまったという。だから、余計なことを言わずに息を殺して静かにしていることがベストだという風潮がはびこっていた封建時代ならいざ知らず、21世紀を迎えた今日でもこうした選択をせざるを得ないというのでは、あまりにも惨めすぎます。もちろん自由というのは我が儘な面もありますから、必ずどこかで誰かと衝突します。しかし、そうした時の解決策が暴力でしかないというのは、あまりにも知恵がなさすぎます。仮にどちらかの力が強く、相手を屈服させたとしても、納得がいかない相手は必ず逆襲の機会をうかがうことになるはずです。暴力など使わなくても、じっくりと話し合い、均衡点を見つけ出す努力をすることで折り合いを付ければ、相手と妥協することのコストの方が断続的に戦うためのコストよりはるかに少ないことは明らかです。近世から現代にいたる過程で、このことを嫌というほど学習したはずなのに、まだ目が覚めないのでしょうか。さくらも嘆いているようです。