この時期、思い出される和歌・短歌
和歌と短歌の違いは、簡単にいうと、近世までは和歌と呼ばれ、それ以降は短歌という呼び名に変わったとされています。わが家のオヤジは、和歌とか短歌などという風流をたしなむがらではありませんが、この季節になると、何故か口ずさむ歌が2つあります。その1つが、「東風吹かば にほひ起こせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ(春を忘れるな)」です。この歌は、学問の神様で有名な菅原道真公が、時の左大臣藤原時平一派に謀略の疑いをかけられ、中央政権から福岡の太宰府長官に左遷させられたとき、自分の庭の梅野木に呼び掛けて歌ったものだそうです。歌の意味は至ってシンプルで、東風(こち)が吹けば、梅の花の便りを送ってくれよ!主である私がいなくなったからと言って、春を忘れないでくれ! と、言った意味だという。風流なうちにも、都落ちを余儀なくされた悲しみが溢れ出ているところが、何とも物悲しく痛々しくあり、学問には縁の薄かったオヤジが、高校時代から好きだった歌だという。理由はいまだにわからないが、強いて言えば、梅という花の特性である、凛とした姿が郷愁を誘うからではないかと言っています。
もう1つの歌は、新古今集の中の持統天皇が詠んだ「春すぎて 夏来(き)にけらし 白妙(しろたへ)の 衣(ころも)ほすてふ 天(あま)の香具山(かぐやま)」です。この歌の季節にはもう少し早いのかもしれません。この歌は、梅雨明けが宣言され、やっと陽光が輝く夏が到来した時に詠ったものだと思われるからです。夏と言えば突き抜けるような青い空と白い入道雲がイメージされ、夏の魅力はこうした爽快な原色のコントラストが姿一番に思い浮かぶのではないでしょうか。このように、夏の歌には、やはり強烈に感じさせる豪快な歌が多いように思われますが、オヤジが好きな持統天皇の歌は、白を印象的に扱っていて、涼しげな感じを表現しているところがなんとも清々しいというのです。「夏なんて熱いばかりで嫌だ」と言っている人も、「この季節が一番!」だって喜んでいる人も、この歌のさわやかさを感じてほしいというのです。現代語に訳すと、「いつの間にか、春が過ぎて夏がやってきたようですね、夏になると真っ白な衣を干すと言いますから、あの天の香具山に(あのように衣がひるがえっているのですから)。
この2つの歌は、前述のように季節的には春の歌と夏の歌です。しかし、ときの移ろいは気ままなものですから、春と夏が同居しているかのような錯覚を覚えるくらいジレッタイ毎日です。特に近年は、自然の猛威が長く続き、おまけに人為的な暴挙まで加わってはなおさらです。我々人間は、何千年、何万年の歴史を経てきても、「自由」と「我儘」を明確に定義づけることに成功していません。しかし、「ルール」だけは作るすべを持つことができました。つまり、自由と我儘をごちゃ混ぜにして都合のよいように解釈している人や国・地域が衝突した時、それを解決するためのルールは確立されているわけですから、そのルールに則って、より合理的に解決することは可能なはずです。また、そのルールが不合理であれば、話し合いで改正することだってできるはずです。しかし、傍若無人に振る舞い、まるで他人が自由に行動したり、意見を述べたりする権利など取るに足りないとばかりに封じ込めようとする。こうなってしまっては、円満な解決は難しい。こういうときは、好きな短歌でクールダウンするのがオヤジのおすすめだそうです。