仙加苑(2)(白石市)
例えば、社長が調理修業をして戻ったばかりの頃、先代との共同開発で蔵王チーズを使った冷凍大福「樹氷もち」を完成させた。これが大反響を呼ぶと、「東京ばな奈」から要請を受け、「チーズうさぎ」の名で卸すことになる。しかしこの作業が多忙を極めてしまい、「自社製品がおろそかになってはダメと、先方に丁重に取し引き中止をお願いしました」。先代社長の八代・圭一さんから、代々の歴史を伺うことができた。
梁川町の本覚寺が、資料焼失を詫びながら、不確かなものと前置きしつつ、先祖を辿ってくれたという。初代は平作という名だけが残り、二代・徳太郎は1894年(明治27年)に没した。三・四・五代は、本覚寺に埋葬されているのは確かだが、名や年代は不詳。「六代・徳蔵が私の祖父。その父親が後妻を取り、居づらくなって出奔するように家を離れ、小原(現白石市)に来たそうです」。その際、息子を思う父が持たせたのが件の掛け軸だ。
改めて絵を見ると御菓子所の文字の脇に、加藤屋徳太郎の名が読める。時の主が一法斉富国という絵師を雇い、2年半がかりで一対の軸に仕上げたという。命じたのが徳太郎本人なのか、後世が回顧したのかは不明だが、加藤家の栄華が偲ばれる。さて徳蔵は小坂峠を越え、小原の萬蔵稲荷に立ち寄った。身の上を聞いた宮司の勧めで、小さなお菓子屋を開く。裸一貫からだったが、人徳があったらしく、次第に米や酒、たばこなどの配給品も扱い、繁盛したという。