太田興八郎商店(1)(塩竃市)
奥州一ノ宮「しおがまさま(鹽竈神社)」の門前町。一角に塩竃市文化景観賞の工場と、風情ある木造店舗を構えるのが、味噌醤油醸造元太田興八郎商店だ。「塩竃空襲の時、庭に焼夷弾2発が落ちたものの不発弾だったらしく、急いで水をかけて消し止めたとか」。恐ろしくも、ほっとする滑り出し。現在蔵を取り仕切る太田真さんが、内部に誘いながら長い歴史を語ってくれた。初代は宮城県大和町鶴巣の太田村出身。鹽竈神社の参拝客相手に、正面石段の近くで旅籠をはじめた。二代、三代と大きくしていったというから、才に長けた血筋だったのだろう。旅籠のまかない用に米や味噌を作るようになり、田畑を所有して小作人も雇っていた。1845年(弘化2年)、四代目のときに味噌醤油の販売を開始。
この年を創業とし、代々が興八郎を襲名する、醸造業としての「太田興八郎商店」も歩み出す。屋号の商標「イゲタヨ印」には、良い仕込み水に恵まれ、良い醸造が叶うようにとの願いが込められているという。その後、明治20年代、塩竃でもより港に近い、現在の場所へ移転を決めた。「当時は目の前が川で、港からの小舟が頻繁に行き来していました」。寄稿した漁船の船員が小舟に乗り換えて店の前に着け、味噌醤油をたっぷり積んで戻り、また漁にでるのだそうだ。「舟運に加えて宮城電鉄(宮城電機鉄道/現在の仙石線)も通り、先祖はよく先を読んでいたようです」。
時代は下って現代。大田さんは3年まえから、「木桶仕込み醤油」の復活に取り組んでいる。クラウドファンディングで募った資金をもとに、吉野杉の木桶を誂えて初仕込み、「塩竃に揚がる新鮮な魚を、木桶で作る最高の醤油で味わい、みんなに笑顔になってほしい」との意図だそうだ。もともと醤油は、蔵に住み着いた酵母や乳酸菌といった微生物と気候風土が作るものだ。吸収する素材である木桶は、微生物に最良の環境なので、必ず美味しい醤油ができるはず。また一方では木桶職人が激減し、製造所は全国で一社のみとなった。そこで、このプロジェクトを推進すれば、木桶そのものも注目されると期待を込めたという。