海軍大将 山梨勝之進-その2
若槻元総理は「未来の宮内大臣と噂されていたが、貴方はこんなことがなければ、海軍大臣でも連合艦隊司令長官にもなりえたのに、それが予備役になるとは。誠に申し訳ない」。すると山梨は「いや、軍縮のような大問題は犠牲なしには決まりません。誰かが犠牲者になって会議が成功したのだから気にするには及びません」。山梨の軍政家としての手腕には海軍部内で卓越していた。頭も良く誠実で、将来の国防問題に対する的確な見通しを持ち、部内を統制する識見を持っている。山梨の進める軍縮・和平の思想を受け継ぐ人物に米内光政、山本五十六、井上成美らがいた。予備役後東京千歳船橋の自宅でバラを作っていたが、14年(1939年)10月学習院院長に就く。皇太子明仁親王(現・上皇)の入学を目前にして、院長の選任は慎重に行われ、特に昭和天皇に信認が厚かった山梨が、皇太子の教育を任せられる人材として選ばれた。
それから戦前戦後の7年間、皇太子の教育に全力を傾け大任を全うした。終戦翌年の昭和21年(1946年)元日に発表された昭和天皇の『人間宣言』の中で、天皇は、自分は神ではないとし、五箇条の御誠文に立脚した国づくりをすべしと述べられた。山梨はこの詔書作成に強く関連し、GHQとの調整に奔走した。昨年、山梨勝之進の「日記」が発見され、戦中戦後史の解明につながると反響を呼んだ。昭和25年(1950年)、品川区大井林町に再建された仙台育英会「五城寮」の初代舎監になる。73歳から8年間、夫妻は寮生と起居を共にし、郷土学生の指導と人間形成に貢献的に尽力して、多くの人材を輩出した。仏教哲学者鈴木大拙と親交を深め、また山梨と旧知の吉田茂首相や小泉信三慶応義塾塾長、田中耕太郎最高裁長官、一万田尚登日銀総裁らが訪れ、時に学生に講話もした。その後、旧海軍の「水交会」初代会長として遺族援護処遇に尽力。また、海上自衛隊幹部学校で戦史講義を89歳まで全うした。
名講義として知られ、毎日新聞が「歴史と名将」として公刊した。最後まで自らの功績を語ることなく、昭和43年1967年) 12月、90歳の生涯を閉じた。青山斎場での葬儀は、天皇皇后両陛下、皇太子、同妃、各宮殿下からの供花で埋まり、常陸宮が参列された。東京青山墓地に眠る。伝記に『山梨勝之進先生遺芳禄』。海上自衛隊幹部学校に胸像「山梨大将像」がある。戦後武者小路実篤、志賀直哉など知識人が宮中に招かれて懇談の際、「陛下が重臣や軍人の中で一番篤とご信任なすったのは、誰ですか」と昭和天皇にお尋ねすると、即座に「山梨勝之進である」と答えられた。禅に徹した人生観を持つ円満な常識家で、終始一貫国のため誠実一途であった山梨に、天皇は共鳴を感じておられたといわれる。明治・大正・昭和の激動の時代にあって、国家と県人のために生涯を尽くした見事な生き方であった。