海軍大将 山梨勝之進-その1
昭和5年(1930年)の「ロンドン海軍軍縮会議」。山梨は日本の将来を見すえて非戦・平和に徹し、海軍主流派の猛烈な反対のなか軍縮に取りまとめた。そのため、確実視されていた海軍大臣の椅子を棒に振ることになる。昭和天皇に最も信頼されていた山梨勝之進。政宗も通った京都妙心院で禅学を深め「人間一生これ研鑽」、生涯かけて多くの人材育成に尽力した。勝之進は明治10年(1877年)、士族山梨文之進の長男として仙台市中島丁(宮城第一高等学校の校庭に生家跡の碑がある)で生まれた。海軍に進む道を選び、仙台東華学校(校長新島襄)で英語を学び、秀才中の秀才が競う海軍兵学校入学、32人中2番目の成績で卒業。日清戦争(1894~5)が終わった2年後である。24歳の時、戦艦「三笠」回航委員の先発として英国に駐在。27歳で日露戦争に従軍、扶桑航海長、第4艦隊参謀に補される。明治39年(1906年)、海軍大学校第5期生となり、教官の鈴木實太郎大佐や日露戦争で活躍した秋山眞之中佐ら名士に学ぶ。
翌年16人中次席で卒業し、海軍大将山本権兵衛(後に総理大臣)ら優れた上官に仕え、人を見る目が養われる。後に海軍大学校教官となって戦史を担当し、学生に山本五十六(元師)、古賀峯一(元師)、堀悌吉(中将)らがいた。第一次世界大戦後、日米間の建艦競争が激しくなる。軍備制限のため大正10年(1921年)「ワシントン軍縮会議」が開かれた。日本海軍の主流を占める「鑑隊派」は国防のためとして軍縮に猛反対し、軍縮の「条約派」と対立激化。日本発展のため「日米海軍は戦うべからず」の信念を強く持つ山梨は、会議は難航したが加藤友三郎全権大使の随員として全力で補佐し、米:英:日の主力艦を5:5:3とする比率が定められた。ちょうど原敬首相が東京駅頭で暗殺された年である。山梨は中将、海軍次官と出世道を歩んだ。昭和5年の「ロンドン海軍軍縮会議」は、補助鑑艇の削減で各国の主張がかみ合わず交渉は難航。
日米の比率案に軍令部や海軍首脳部、さらに右翼の激しい攻撃で交渉は危機的状況となる。若槻禮次郎全権大使の留守を預かった山梨は、国内にあって海軍の実質的責任者として条約締結のため対立する海軍内部のとりまとめに心血を注いだ。軍縮に猛反対する「政友会」などと激しく対立し、暗殺される危険もあったが反対派を懸命に説得し、日米の主力艦比率69.75対100で妥結に持ち込み軍縮会議は成功した。しかしその直後におこった統帥権干犯問題があり、山梨は「海軍のご奉公中最も苦難な時代で感慨無量である」と述懐している。昭和7年(1932年)4月海軍大将に親任されたが、翌年、突如予備役に編入され海軍を追われた。軍縮に反対する「艦隊派」の後ろ盾が、鹿児島出身の東郷平八郎元帥であった。山梨は人事局長在任中、海軍大臣に目に余る鹿児島優遇を止めるよう進言し、実行していた。「条約派」の旗頭であった山梨大将の退役によって、「艦隊派」が政治の主導権を握るようになった。