郷土の偉人 伊澤平左衛門-その1
伊澤家は元禄年間(1688から1704年)から仙台城下で300年続く商家で、清酒製造は天保時代(1830から1843年)に始めた。優れた品質により安政4年(1857年)仙台藩の「軍用酒屋」となり、北五番丁に屋敷を拝領して士分格を賜う。清酒「勝山」を製造し、東照宮と仙岳院の御神酒醸造権を得るなど経営基盤を固め、仙台を代表する酒造家になった。戊辰戦争に破れ、さらに明治維新で禄を失い生活に困った藩士達から、武家屋敷の買収を頼まれた。先の見通しが立たない時代であったが、苦境を見かねて屋敷や田畑の買収に応じた。伊澤家に不動産が多いのにはこういう事情があった。慶応4年(1868年)3月、戊辰戦争で奥羽鎮撫総督府が仙台に入り騒然となった頃、伊澤平蔵の長男で10歳だった平左衛門は、新寺の松音寺に預けられ修行に励んだ。
ついで塩釜の同業者で今に続く阿部勘酒造に1年ほど奉公し現場を学んでいる。これは母ろくの、内気な我が子を鍛える親心からである。伊澤家では質素倹約を徹底し、家のしきたりは厳格であった。父平蔵が多くの公職についていたこともあって、平左衛門は家業の酒造業に専念し、酒造組合設立に際し副会長に推されている。公職に着いたのは父が引退した50歳からで、主なものは明治42年(1909年)仙台市会議員、大正年9年(1920年)仙台ガス会社社長、衆議院議員、12年(1923年)仙台商業会議所会頭、七十七銀行頭取、13年宮城県酒造組合長、14年には貴族院議員になった。義理と人情をわきまえていたので多くの人に親われ、市会議員時代は土木、水道、都市計画関係に活躍。大正9年、原敬首相から強く誘われ、衆議院議員となり政友会に属した。
原内閣の下で東北大学の拡張、塩釜港の整備、仙山線建設など、その才を振るい多年の懸案を解決する。第6代の仙台商業会議所会頭に就いた平左衛門は、折からの昭和金融恐慌で苦しんでいる東北の産業振興と地元産業の活性化のため、初の東北産業博覧会の開催に全力を傾けた。県と市は財政逼迫とのことで仙台商業会議所が主催することになった。渋沢栄一が総裁となり、会長に伊澤会頭が就任して、総予算67万6千円を計上し2年がかりの準備で規模・内容の充実を計った。干支が戊辰の年に当たる昭和3年(1928年)、博覧会は川内の騎兵第二連帯跡(現仙台二高)と西公園、榴岡公園の計4万坪の会場で開催した。仙台市人口の2倍以上の45万人が来場する大盛況で経済効果は大きく、これを契機に仙台七夕祭りの開催など仙台経済界は活気を取り戻し、景気回復の起爆剤となり博覧会は成功した。