「因果応報」とは単なる戒めの言葉か?
因果応報とは、仏教の教えを表す言葉で、一般には、「自分が悪いことをすれば、必ずその報いを受け、処罰されたりして不幸になる」という意味で使われます。ここで使われる「因」とは原因のことで、「果」とは結果のことです。そして、「応報」は、善い行いには良い結果を、悪い行いには悪い結果をもたらすという意味です。この理屈でいうと、毎日テレビや新聞などで報じられている、犯罪行為をする人は、因果応報の意味を理解していないか、あるいは知っていても、なお、犯罪行為を思いとどまらせる戒めになっていなかったのかを、推しはかることができません。私たちは、平時にはこの戒めを人生のガイドラインとして尊重していますが。しかし、子供のころには純真無垢でいい子だっ人が、将来、必ず幸せになるのか、と問われれば、どんな大人も答えに窮するでしょう。つまり、性善説でいうと、みんなよいことして生まれてくるわけですか、当然、みんなよい行動をとるはずです。ということは、みんな幸せになるはずなので、敢えて悪いことをする必要はなくなるはずです。
お釈迦様はじめ、偉いお坊さん方がこの矛盾に気かつかなかったはずがありません。つまり、「性善説」や「性悪説」とい考え方をせず、元々いい子もいるし、悪い子もいる。そして、どちらも、「良いことも悪いこともする可能性がある」という前提に立ち、法を説いていたのではないかと思うのです。それなれば「因果応報」の意味も理解できます。元来、「哲学」「科学」はあいれないもの、あるいは最も遠い位置にあるもとして理解してきました。その考え方が正しいのか、間違っているのかの議論は置いておくとしても、世の中の変化に犯罪の遠因が存在するように思われてなりません。環境の変化が統制不能のものと仮定すれば、未来のある子供たちに何をよりどころにして、処世術を伝えればよいのでしょう。理屈抜きで、とりあえず勉強して学力を身につけることを勧めるべきでしょうか。それとも、思い切って子供が興味をもっていること伸ばすように応援すべきでしょうか。しかし、どちらも正解ではないように思います。何故なら、環境は日々変化し、その変化を読み取る力を蓄えていた人が、生き残る可能性が高いことは確かだからです。
そのサバイバルゲームの途上で、今の世の中で起きているような犯罪が起こるは当然だと割り切っていいのでしょうか? 決して誰もそんなことは望んでいるはずがありません。しかし、現実には、所得の格差は「幸せの格差」となり、多くの若者がそれを運命とあきらめ、何らかの形で一生付き合うことになります。この状態を「因果応報」とは呼びませんが、「事業自得」としてかたずけられている現実には納得できません。人は本来の自分にしかない個性というものがあります。その個性を信じて伸ばし、世の中に貢献できれば、少なくとも自分らしい生き方に充実感がもてるようになる可能性は高いでしょう。世の中の仕組みが、こういう人たちを本気で応援する仕組みづくりに取り組んでいるとは思えません。教育改革をはじめ、社会福祉などに対する姿勢は、極めて場当たり的で、横並び主義的施策だけが目に付き、本当の意味で人の尊厳を重視した施策にはなっていないように思います。「勉強するのはいいこと」でも動機が不純であれば悪いことに結びつく可能性もある。「勉強することが豊かな将来につながる」と信じられるような社会をつくる責任が私たちにはあります。ボクは今日、このことについてオヤジとじっくり議論しました。