人は元々我が儘に生きている
最近話題になっていることと言えば、「高齢ドライバーによる交通事故」「学校や職場でのいじめ」「芸能人などの覚醒剤使用」などでしょうか。そのほかにもたくさんありますが、いずれの問題も抜本的な解決手段を見つかっていません。テレビなどマスコミでこの問題はしょっちゅう議論されていますが、最終的な意見は、「政府がなんとか対策を講じるべきです」という結びで終わる。私たちがききたいのは、この「なんとか」の部分をどうすべきか、ということです。「対策を急ぐべき」「何とかしなければならない」のは誰で知っているはずです。どんな著名な学者や研究者に聴いても答えはほとんど同じです。ただしい、明快な答えが出せないのは、先生方の見識や脳力が不足しているからではなく、元々は「自分ならどうするか」という問題であるはずです。ところが、私たちは、自分はやりたい放題で、それによって生じた弊害を解消するのは、他人の問題だという、人間の本質的な身勝手さ」を常に優先しているからでしょう。
例えば、「高齢ドライバーによる交通事故」にしても、もし事故を起こせば、被害者はもとより、自分や家族に多大な迷惑及ぼすことは重々承知しているはずであるから、自分をしっかり管理する意識が便利さを享受する意識の方が優っていれば、かなりの事故が防げるはずです。「学校や職場のいじめ」や「芸能人などの覚醒剤使用」は、自制心の欠如そのものですから、他人に責任を転嫁する余地などありません。では、こうした社会悪や犯罪に手を染めるのは自制心あるなしによるものでしょうか。それはどうも違うような気がします。自制心についていえば、「ある、なし」の問題ではなく「欠如」の問題というべきでしょう。そして、「おかれている環境」も大きな要素となっているような気がします。自制心が普通より少し欠如している人が、ある環境中に置かれると、公序世良俗に反する行動をとってしまうのではないでしょうか。つまり、人間は大なり小なり、「自分かってな生き方を好む」という遺伝子を生まれながらにして持っているというので、ある環境が整えば、元々もっている身勝手な心がそそのかされてしまうと、自制心がほんのちょっと普通より足りない人から、順番に誘惑に負けてしまう。
しかし、だからと言って、そそのかした環境が悪いのであって、そそのかされた本人には責任がないなどといっているわけではありませんが、社会は身勝手な人の集まりでできていることを、謙虚に認め合うことをベースに善悪を考えなければ、解決の糸口は見つからないように思います。それをむりむり、いい人、悪い人(悪いことをする人)に二分化して考えたり、あるいは、人は生まれたときは善人であったが、成長するにつれて悪行を学ぶ(性善説)と人は生まれたときは悪人であるが、成長するにつれて善行を学ぶ(性善説)という伝統的な考え方がある。しかし、いずれの説もいまだ説得力のある化学的根拠を示せていない。ただ、現実には悪いことをしてしまった人は存在します。では、それ以外の人は全て善人であるとみて差し支えないのでしょうか。とてもそうとは思えません。それなのに、誰かが悪いことをして警察に捕まり、重い刑を科せられたことを知ると、途端に、自分はいい人である(いい人でいたい)ということを強く意識する。これこそが人の本性というものではないでしょうか。つまり、人はみな、いい人にも悪い人にもなる因子を
常に抱えており、ある誘因によりどちらの因子が活発化するかで、籍を移動する可能性があることを認識しなければならないような気がします。