約 束
世の中は、お互いに約束を守ることによって成り立っています。しかし、現実には毎日のように約束が反故にされている。約束には本来、重い軽いはないはずですが、一般的には約束を破った時に科せられるペナルティの重さによって約束の重さの相場が決められているようです。それでも、その重いはずの約束でも、いとも簡単に破られているところを見ると、「約束とは破られるものである」ということを前提にしているともいえるかもしれません。オヤジに聞いたところによると、昔は、「法律は破られることに意義がある」などと豪語する紳士(に見える)人もかなりいたということですが、現在はさすがに少なくなった気がします。しかし、その反面、狡猾でかつ巧妙な犯罪は一向に減らず、むしろ、増え続けているようにも見えます。こうした犯罪者にとっては、「社会との約束事を如何にして反故にするか?」が、ライフワークになっているのかもしれません。こうした現実を毎日のように見せつけられると、「勉強します」などという約束に背いても、罰を与える気力も萎えてしまうというものです。
しかし、その反面、幼い子供に暴力をふるい、あるいは食事を与えなかったりしている親も増えているということです。もっとも、こうした行為は、増えているのではなく、事件として取り上げられ、メディアに晒される機会が多くなっただけで、実際は昔からあったのではないかという意見もあるようですが、いずれにしても痛ましい限りです。基本的人権の尊重という、憲法の柱の一角を傷つけたのですから、それ相応の罰を与えられて然るべきだと思うのですが、被害者である子供の将来を考えると、罪と罰のバランスだけで判断することもできず、何とも歯がゆい気がしてなりません。とはいうものの、こうした事件が起こる背景を考えてみると、私たちも単なる第三者のままでいいのかという疑問もわいてきます。子供と親という当事者だけの問題ではなく、社会という第三の当事者であるわれわれの責任でもあるようにも思えてきます。つまり、「人の尊厳を傷つける行為」をしないよう見守るという約束(義務)をないがしろにしていたのではないのでしょうか。
人の行動には、必ずそのような行動を起こしたいインセンティブ(誘因)があります。そこで、相手の行動を操作するため、相手に自分が有利になる行動をさせるインセンティブを与える方法があります。例えば、低価格で商品を仕入れたいのであれば、長期にわたり相手から多量に商品を購入する契約を結んだりするような方法です。いじめ問題でいえば、相手(親、友人)が自分を大事に扱ってくれるためには、「可愛く振舞ったり、受けた恩を何倍にもして返す約束をする」などが考えられます。ただ、幼い子供の場合は、相手にインセンティブを与える術が身に付いていないので、これを社会人であるコミュニティの人々が補佐するという方法を考える余地はあるはずです。この「補佐すること」の内容を具体的に明文化し、子育て世代も巻き込んで、お互いにコミットしあえば、いざというときにはコミュニティが頼りになる存在として認知されるでしょう。こうした組織はあらゆる犯罪(約束違反)を排除するための抑止力になると思うのですが?