鹽竈海道
男坂と呼ばれる鹽竈神社表坂前の道は「鹽竈海道」と呼ばれ、蔵元や銘菓志ほがまの店など土蔵造りの商家が並ぶ風情のある街並です。1700年(元禄13年)頃、伊達綱村公によって整備されたこの海道は、近年「歴史の道」として歌碑や曲水などのモニュメントの整備が進められ、このほど完成し市民や大勢の観光客が訪れ親しまれています。
この道は、かつて入江(千尋淵)でしたが、奈良時代以降、町の発展とともに東側に埋め立てられました。東北の都市では最も長い歴史をもつ塩竈は、縄文時代から原鹽竈神社のもと製塩の地として栄え、大化の改新以降は大和朝廷の東北侵略の足がかりとなり、奈良、平安時代には国府多賀城の港として「香(国府)津千軒」と呼ばれる商業集積が形成されました。
そして平安京の都人によって「歌枕の地」として広く知られるようになり、紫式部などの著名人により数多くの歌が詠まれました。特にこの地を愛でたのが光源氏のモデルともいわれ、朝廷貴族の栄華を極めた河原左大臣源融(とおる)で、屋敷に「塩竈の景」を模した庭園を造らせたほどです。その後、門前町として各時代の支配者の保護を受け、江戸時代には伊達藩で唯一遊興が認められた町とてして賑わいました。