郷土の偉人 今村 均(1)
陸軍大将今村均は誰よりも人を愛し、人から愛される人間であった。一度も戦争に敗れていない「名将」とされ、戦中・戦後の誠実な生き方から「聖将」と呼ばれた。太平洋戦争で日本軍の中枢にいた今村は、ソロモン諸島の戦局の悪化を受け、方面軍司令官として激戦地ラバウルに転任。連合艦隊司令長官山本五十六と防衛に全力を尽くした。今村家の祖父鷹之助は戊辰戦争で仙台藩の参謀を務め、父の虎尾は家計を助けるため裁判所の給仕になり、独学で判事になって各地を転任した。均は明治19年(1886年)6月、仙台市外記丁(錦町・本町)で九人兄弟の次男として生まれ、早産だったこともあって体は小さく、ずうっと寝小便に悩んでいた。新潟県の新発田中学を首席で卒業し東京の一高を目指していたとき、父親を亡くした。篤志家から奨学金を申し出もあったが、陸軍将校の娘だった母親の強い勧めで陸軍士官学校学校を選ぶ。母は人のお情けで学問を受けるのに反対し、「日本はロシアとの戦争でお国が興るか滅んでしまうかの大変なときで、5人もの男の子が一人も戦いに出ないではお国に対する義務を欠く」と諭した。
明治38年(1905年)、貧弱な体格だったが新発田の陸軍士官学校に入学。手内職して送金する母の手紙に励まされ、兵隊靴で毎日8㎞も駆け歩き、勉学にも打ち込んだ。首席で卒業し、仙台の歩兵第四連隊に配属され初年兵の教育・射撃訓練などに当たった。大正4年(1915年)、青山の陸軍大学佼を主席で卒業し軍刀を下賜される。同期には東条英機(後に総理大臣)、本間雅晴(第十四軍司令官)らがいた。仙台歩兵第四連隊の第十中隊長に命じられ、30歳で結婚。その後陸軍省軍務局、参謀本部、武官としてイギリス・インドに駐在した。昭和5年(1930年)大佐に昇進、参謀本部作戦課長となり「満州問題」の解決を命じられる。軍中央の不拡大方針のもとに用兵計画を立案し関東軍が出動する「満州事変」が勃発した。昭和13年(1939年)陸軍中将となった今村は第五師団長の任命を受け、仙台の輪王寺で父母の墓前に戦地に赴く報告をする。満州でノモンハン事件が発生し、2万弱の戦死傷者を出した。多くの部下を亡くし戦争の残酷さを知った今村は、軍に辞表を提出して仏門に入ろうとしたが受理されなかった。
第五師団は休む間もなくベトナム国境に近い南支那の南寧に転戦。30万の蒋介石軍に対し、その1割程度の兵力で50日間戦い抜き今村の評価を高める。昭和16年(1941年)7月、アメリカの対日石油禁輸は、軍部の対米開戦に火をつける結果になり、12月8日、真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入し、陸軍は南方作戦を進めた。昭和17年(1947年)3月、今村は第十六軍司令官となり仙台第二師団4万の兵を率いてオランダ領東インド(現インドネシア)を攻略し、オランダ、アメリカ、イギリス、オーストラリア8万の兵が守る最大の難関とみられていたジャワ島を、激戦の末わずか9日間で降伏させた。独立運動の指導者スカルノ(初代インドネシア共和国大統領)を開放して手厚く援助し、長くオランダの植民地であった当地の民族独立を約束する政策をとった。各所に学校をつくるなど現地人を第一に考えた軍政で、ジャワ人は親日的になり平穏になる。従軍記者の大宅壮一は「これが本当の大東亜共栄圏か」と今村軍政を絶賛している。