郷土の偉人 今村 均(2)
5月、日本軍はアメリカとオーストラリアの補給路分断のため南太平洋のソロモン諸島に進出し、諸島最大の島であるかダルカナル島に飛行場の建設を始めた。だが8月7日、米軍の海兵師団1万1千兵が日本軍の不意を突いて上陸、占領した。11月、大本営はガダルカナル島奪回のため、今村均中将を第8方面司令官としてラバウルに送ることにした。その際、天皇陛下から今村に呼び出しがあり、「南方で兵隊が非常に苦労している。この兵隊を助けてやってくれ」とお言葉があった。20日に着任し、翌日連合艦隊基地トラック島の戦艦大和艦上で司令長官山本五十六大将に迎えられた。二人は佐官時代からトランプ・ブリッジの常連で、それぞれの家庭を持ち回りするほどの仲であった。艦上での会食後長官室に誘われ「ガダルカナル島奪回作戦には航空戦力があまりに不足している。輸送船が到着できず、補給を引き受けている軍として責任を感じている。率直に言って戦局は難戦の域に入っている」と話した。かダルカナルの戦場で第二師団は奮戦し多くの戦死者を出し、そのほとんどは宮城県出身者であった。米軍によって補給を断たれ1万5千の日本兵が餓死し、残る将兵も飢餓状態であった。
今村は米軍と戦うよりも、孤立した兵士を飢えから救い無駄死にさせない方針に転換した。昭和18年(1943年)1月、大本営は戦局悪化により、今村と連合艦隊山本長官にガダルカナルからの撤退命令を下した。だが米軍大艦隊に制空権、制海権を奪われているガダルカナル島から1万6千余の陸海軍将兵を後方に撤退させるのは至難のわざであった。それを今村は周到な準備をし、駆逐艦20隻で3回にわたって全員をラバウルに輸送するという奇跡的な救出劇を成功させた。今村は最南端の基地ラバウルを守る陸海将兵約10万人を、農作業、塹壕掘り、警戒作戦に当てるという態勢をとり米軍との戦闘に備えた。兵士たちは7千町歩を開墾して米を作って自活し、さらに地下要塞は東京-名古屋間に達する広さになり、ラバウルは何年でも敵の上陸を破砕できるほどの陣営を築いた。4月17日、今村は山本五十六長官から夕食に招かれた。山本は「僕は明日ブインに飛び、第一航空部隊を慰労方々激励してくるつもりだ」と言った。翌日、山本長官機撃墜される」との報告を受けた今村は泣いて悲しみ、後に「あれは我が祖国のため取返しのつかない不幸だった」と嘆いている。
昭和20年(1945年)9月、今村は降伏後戦犯容疑で禁固10年の刑を受け巣鴨刑務所に入る。「部下であった400人がいまだ赤道直下の過酷な環境下で服役している。司令官の私もそこで服役すべきである」と妻を通した三度の請願に、マッカーサー元帥は唖然として「本当にそんなことを嘆願する者がするのか。日本にはまだ武士道が生きている」と感嘆した。今村が炎熱のマフス島収容所へ到着すると400人の受刑者が号泣した。2ヵ年余り後、今村は一同を連れ日本へ帰ってきた。刑期が満了し世田谷の自宅庭の一隅に三畳一間の離れを建てた。謹慎小屋と称して部下たちのことを考え冬でも丸火鉢一つという清貧の生活を送り、困っている部下がおれば何処へでも行って援助や家族の支援を続け、戦後責任を全うした。昭和43年(1968年)年10月4日、乃木神社から依頼された「乃木将軍と少年の像」の揮毫直後に急逝した。享年82歳。青山斎場での葬儀には各宮家より生花が飾られた。今村家の墓所は仙台市北山輪王寺。獄中にあって「今村均回顧録」など多くの自伝を残している。今村家は高邁な識見、崇高な人格、卓抜な行動で、郷土では海の山梨(勝之進)、陸の今村(均)と称され、国外からも畏敬されている。