絶妙なバランス
人は誰でも、自分のために他人に何らかの行動をとるよう促すとき、その行動の内容だけでなく、相手が快く応じてくれる可能性を考えて背中を押すものです。例えば、本当にお願いしたいという切実な思いが込められている場合は、「はっきりとお願いします」という言葉や態度を前面に出して意思表示をするでしょう。しかし、嫌なら断ってもらって結構です、という場合や、もしかしたら相手がこちらの誘導(あるいはそそのかし)のサインに気がつかないことがあっても、それはそれで仕方がないという思いで、背中をそっと押すこともあり得えます。わが家のお母ちゃんの場合は、これらのアクションは計画です。つまり、周りの人にお願いしたい場合は、お願いというよりむしろ命令に近いもので、語気も荒く迫力があります。また、ダメもとでも一応、そそのかして背中を押してみようというときは、非常にわかりやすい表現をします。今朝のそそのかしは、"あぁ~もう9時半すぎてしまった"という単なる嘆きとも、独り言ともとれるような(それにしてはかなり大きな声で)一言でした。
オヤジにしてみれば、いつものことなので、それは大変だ! 私が食器を洗っておこうと申し出た。案の定、お母ちゃんは、してやったりという気持ちなのでしょうか? にっこり笑ってお願いします、と応えた。実はオヤジはこういう見え見えの「そそのかし」には意地でも乗りたくない性分なので、お母ちゃんの「肩たたき的言動」には些か抵抗がある。だが最近では、ユーモアの一種と解釈しているし、家事を分担するのは当たり前のことだ、という心境の変化もあるためか、お母ちゃんのささやきは聞こえないふりをして、「そうだ。今日は暇なので、食器でもあらおうかなぁ~」などとうそぶいて見せる。こうしてみると、権利の平等とかいう均衡点は必ずしも、50対50ではなく、相手の性格や得手・不得手によって異なるもので、必ずしも質や量によって切り分けられるものではないように思います。現にボクの場合などは、力仕事をするわけでもなければ、お掃除をするわけでもなくこれまで過ごしてきました。それでも、存在が認められて、家族として今に至っているところを見ると、それぞれの役割をどのように分担しているのわかりません。
ただ、お互いにズルをせず、困ったときには100%以上の力を発揮して、家族を守る姿勢が何よりも心強く感じられることをお互いが評価しているからだと感じています。100円もらったら100円返す。これは相手をビジネスの対象と見た場合の辺報性をめぐる収支の考え方です。少なくとも、家族の中での収支は金銭の多寡で測るのは適切ではないでしょう。このように考えると、家族の中の合理性とは経済的合理性とは異なるものです。つまり、世の中では「合理性」といえば「経済的合理性」であるとつい感じてしまいがちですが、本来、合理性とは、関係者が共存するために練られたルールの妥当性をいうものではないでしょうか。しかし、それはどんな人がどんな立場で合理的であると判定するのかによって、評価が変わって当然です。大事なことは、不合理だと感じている人を排除せず、合理的に決められたはずのルールの危うさを常に意識する姿勢が求められるということですよね。ちなみに、わが家では、ルールの改定にあまり積極的ではありません。それは不合理なルールの中に、合理的で捨てがたいルールが潜んでいると感じているからでしょう。