世の中は、矛盾の連鎖でできている
矛盾という言葉の由来は、中国の「(かんぴし)」という書物にある故事に由来していると言われています。ある商人が「楯」と「矛」を売っており、楯を売るときは「この楯は堅固で、どんなに鋭い矛でも突き通すことができません」と言い、矛を売るときは「この矛は鋭利で、どんなに堅い楯も突き通してしまいます」と言っているのを聞いた一人の老人が、「では、その矛でその楯を突いたらどうなるか?」と尋ねたところ、その商人は返答できずに困ってしまった、という故事が「矛盾」のもとになったというお話です。でも、もしそのとき、この商人が、「だからもっと鋭い矛を開発した方が世界を制するのです」とでも言っていたらどうなったのでしょう。オヤジ流の屁理屈は大概にするとしても、韓非子の時代から数千年もたった現代でも、未だに「矛盾」は「矛盾」でなく、現役として脈々と受け継がれているように思われます。例えば、「核兵器」を保有すれば、世界を制することはできるかもしれないが、「核兵器保有国も世界の中の一員である以上、自国も滅ぼしてしまうから、核兵器は保有しても意味がない」という有識者の声はうつろに響く。
このように、論理的には正当な考え方と知りつつも、自分や家族の生命・財産にかかわる問題となると、にわかには賛同できません。昨今の世界情勢を考えると、「窮鼠ネコを噛む」というのは幻想ではないと思っても仕方がないような気がします。また、国の借金問題だって、矛盾をものともせず、どんどん積み上げて今日に至っています。オヤジが子どもの頃には生活は確かに貧しかったと言ことですが、国民一人当たりの借金は精々数十万円だったそうです。それが今や1000万円というから驚くほかありません。でも、そのお金を使ったのも我々国民であることを思うと、知らないふりをする分けにもいきません。こんなことにならないためには、みんなで我慢して節約しようということにはならなかったことが驚きです。そんな矛盾したことに平気で手を染めることを厭わないのも人間というものなのでしょうか? こうして考えてみると、生きていくということはきれいごとでは済まされないと言わざるを得ないというのが、正解かもしれません。その証拠に、社会主義も民主主義も、大きな矛盾を抱えているため、相手を正論で論破することができず、便宜上相手の立場を尊重した振りをするという、玉虫色の均衡策でお茶を濁しているに過ぎない。
仮面舞踏会のような世界情勢の中で、下手に正論を履けば、たちまち噛みつかれ、国民を窮地に追い込んでしまう。本音で話し合える土壌はまだまだ確立されていません。こんな混沌とした状況の中では、本当の正義とは何かを論ずること自体無意味に思えてきます。しかし、正義というものは必ずあると信じたいと思います。そうでなければ、私たちは何を拠り所にしていけばよいのか迷ってしまいます。とりあえずは、自分の信ずるところに従い、ぶれることのない生き様を貫くしかなと思います。それも柔軟でかつ寛容性を持った世界観を持ち続けることだとオヤジは言います。確かに、オヤジの仕事に対する姿勢は、単に相手を受けれるだけでなく、さりとて、自我に拘るわけでもないが、できるだけ自分の寛容性の中で、折り合いを付けられる方向を模索しながら解決にあたるというやり方です。別の言い方をすれば、人の正義というものは、その人の立ち位置によって異なるものだから、相手を論破することに意義があるわけではないので、自分の器で精一杯受け入れることで、相手の考え方とベクトル合わせるというやり方です。