鯛と波頭 笹かまぼこ販売一筋五十年
株式会社 すゞき物産
トップページへ
商品案内
会社案内
リンク
 店長の blog
<   2022年12月
日 月 火 水 木 金 土
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

  • おかいもの
  • ちょっと一言
  • みやぎの見所
  • わが家のムサシ
  • イベント情報
  • オープンご挨拶
  • キャンペーンご案内
  • ホットな出会い
  • 一期一会
  • 今日のお客様
  • 大震災
  • 熊本地震
  • 美味しいもの情報

招き猫
powered by Movable Type Movable Type 5.2.10

<<せんだいは「水の都」(1) | ブログTOP | せんだいは「水の都」(3)  >>

せんだいは「水の都」(2)

その最たるものが貞山堀開削事業である。この人工の運河は250年の歳月をかけ、3期に分けて造られている。わかりやすくするために、性格の違うきょうだいと思ってほしい。まず、長男格の木挽堀は名取川河口の名取市閖上から阿武隈川河口までをつないだ。1610年ごろと早く開かれたのは、城下建設に使う材木を阿武隈山地から切り出して運ぶためと伝わる。あれ、山から木を切りだすなら広瀬川を下ればいいのにとと気づくはずだ。 

ご心配なく、とうにわかっていた。広瀬川上流の新川、大倉から薪や木材わ流して、現在の澱橋付近に陸揚げしていた。付近を木場と呼び、今もある川内大工町の地名は名残だろうか。城と住まい、さらに大崎八幡宮、松島瑞巌寺、陸奥国分寺薬師堂の造営と重なり、北部方面からだけでは足りなかった。木挽堀を北上するいかだや船は名取川と広瀬川を遡って現在の舟丁、南材木町を最終地とした。これによって湿地や農地の排水をたやすくした。 

次男格の御舟入掘(塩釜~蒲生)は、仙台藩の直轄事業だった。金や鉄、馬を収入源とした戦国の世は終わり、コメをどれだけ多く生産して流通させるかで大名の力量が測られた。増産計画で採れ始めた県北の産米を、塩釜港や御舟挽堀とともに仙台城下に運ぶ。政宗の死後、約40年後に完成し、ここに物流の道の骨格ができ上がった。やがて江戸に大量のコメを船で送って大儲けすることになるが、その話はもう少し先に譲りたい。

投稿者: みやげもの店主 | 日時: 2022年12月16日 12:12 | カテゴリ: みやぎの見所

■コメントを投稿

いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。



※スタイル用のHTMLタグが使えます