せんだいは「水の都」(2)
その最たるものが貞山堀開削事業である。この人工の運河は250年の歳月をかけ、3期に分けて造られている。わかりやすくするために、性格の違うきょうだいと思ってほしい。まず、長男格の木挽堀は名取川河口の名取市閖上から阿武隈川河口までをつないだ。1610年ごろと早く開かれたのは、城下建設に使う材木を阿武隈山地から切り出して運ぶためと伝わる。あれ、山から木を切りだすなら広瀬川を下ればいいのにとと気づくはずだ。
ご心配なく、とうにわかっていた。広瀬川上流の新川、大倉から薪や木材わ流して、現在の澱橋付近に陸揚げしていた。付近を木場と呼び、今もある川内大工町の地名は名残だろうか。城と住まい、さらに大崎八幡宮、松島瑞巌寺、陸奥国分寺薬師堂の造営と重なり、北部方面からだけでは足りなかった。木挽堀を北上するいかだや船は名取川と広瀬川を遡って現在の舟丁、南材木町を最終地とした。これによって湿地や農地の排水をたやすくした。
次男格の御舟入掘(塩釜~蒲生)は、仙台藩の直轄事業だった。金や鉄、馬を収入源とした戦国の世は終わり、コメをどれだけ多く生産して流通させるかで大名の力量が測られた。増産計画で採れ始めた県北の産米を、塩釜港や御舟挽堀とともに仙台城下に運ぶ。政宗の死後、約40年後に完成し、ここに物流の道の骨格ができ上がった。やがて江戸に大量のコメを船で送って大儲けすることになるが、その話はもう少し先に譲りたい。