せんだいは「水の都」(1)
仙台市内の大通りを友人と歩き、「この街は水の都ではないか」とつぶやく。たいていきょとんという顔をされる。それは大阪や広島のことで仙台は「杜の都」でしょうと。そうとはいえ、広瀬川の恵みを受ける百万都市だけでなく、宮城県全体に目を広げれば、幾つもの河川によって耕土は潤い、暮らしを盛り立たせてきた。それでは郷土と水の関わりを掘り下げたら面白いのではないか、とのささやきが聞こえてきた。都会のざわめきの中で、忘れかけた水源や数百年にわたって使われている水路の音に耳を澄まし、息づく人々の歩みをたどり、現代にどうつながっているかを探す旅に出てみたい。
最初の国づくりといえばこの人、仙台藩祖伊達政宗を差し置くわけにはいかない。水の活用についてどう考えていたのだろう。1600年の関ヶ原の戦いを経て、この地を拠点としたのは、交通の利便性にある。江戸まで奥州街道で一直線、南から海岸部を北上する常磐道は仙台近辺で交わる。西の奥州山脈を抜ければ山形に出られる。すべての道が通じ合う結節点なのである。早くも経済や流通の道筋を描いていたとは政宗らしい。しかしながら、広瀬川のほとりに腰を掛け、こうも自問自答しただろう。「平野部は野谷地と湿地ばかり。雨が降れば溢れてしまう。
この未開地をどうやって京や江戸に負けない城下に造り変えれるか」。この頃、城と新しい街を結ぶ仙台橋(いまの大橋)の擬宝珠(ぎぼし)に漢詩を刻んでいる。(仙人橋下 河水千年 民安国泰 孰与尭天)。現代語風に訳すと「広瀬川の流れは永遠である。民も国も安泰で中国の聖王・尭の築いた楽土に劣らない」。さらに「大きな港や橋が設けられて車馬が往来する」と願いを続ける。いまは荒れていても水を治めることで何とかなると自らに言い聞かせていた。果たして、水運と利水を図るプロジェクトがあちらこちらで始まった。