せんだいは「水の都」(3)
もう一つの新堀は歳の離れた三男坊、南北に離れた二つの堀をつなぐ。仙台市内で目にする水路を指す。新堀の誕生で総延長30キロを超える日本一の運河の完成となる。「歳の離れた」には少し説明を要する。江戸末期の1838年、藩士の島貫兵記は「井土浦と蒲生をつなげば舟の往来が自在になる」と申し出る。だが、天保の飢饉でてんやわんやのさなかであり、日の目を見なかった。明治になって野蒜に港を造る構想もあり、物資を集めるためのプランが復活する。
1888年に阿武隈川と野蒜を結ぶ形で仙台藩以来の悲願を成就させている。歴史に「もし...」は禁じ手ながら台風被害で野蒜築港が頓挫していなければ、日本を代表する貿易拠点になっていただろう。米国大陸に向かう太平洋航路は宮城県沖で西からの海流と風に乗ってかじを東に向ける。なんのことはない、支倉常長の遣欧使節だって、日本のどこからよりも早く到着できる利を知った上で船を出したのだから。仙台市内の運河はその後、鉄道の開通で物流の役割を終え、半農半漁の暮らしとともに歩む。
塩釜まで買い物目当てのポンポン船が行きかうのどかな里浜になった。釣りやシジミ取り、海水浴でお世話になった市民も多い。8月20日夕暮れ、若林区荒浜の貞山運河で先祖と震災犠牲者を弔う燈籠流しが行われた。土地の方々はオリジナルの「深沼念仏」を唱え、水の恵みに感謝をささげる。100年以上続く盆明けの恒例行事で、今年も150個の燈籠がまばゆい光を水面に映した。「つなぐ」「平和な国」と手描きされ、祈りと魂が乗り移ったようにゆらゆら動く。長いこと、水と共生するのが安寧への早道だった。その大切な夢を抱えた先人の世だけでなく、現代でも全く変わらない。