それを言っちゃお仕舞いよ!
たしかに世の中には、高潔で「余人をもって代えがたい」と評される人もいますが、しかし、いったい誰がそう評価するのかが問題ですよね。大勢の人が「あの人を置いてリーダーはいないと判断して、1票を投じた人が一番多ければ、例え自分が反対であってもそれを受け入れるのが民主主義のルール(原則)です。ところがルールや選挙などで一旦リーダーの座を勝ち取ると、その後はお手盛りで、自画自賛のオンバードになってしまい、他人の評価など全く意に介さない。ちなみに、こうした悪しき習慣は今に始まったわけではなく、有史以来連綿と続いてきた形跡がある。今、一般家庭の茶の間で場外議論が沸騰している現状は、情報化社会がもたらした覚醒作用により、白日の下にさらされるようになったためで、もう少し情報化社会が発展すると、リーダー候補の闇の部分も事前に明らかになり、「信頼に値するリーダー」を選びやすくなるかもしれない。リーダー候補の皆さん! もう少しの間だけでもなんとか粘り通したいなどと、よこしまな心を持ち続けないようにお願いします。こうした負の遺産は、自らのリーダーシップで破壊することこそ、選挙民の好感度を上げる近道になるでしょう。
そんな青臭いことを言っていたら、生存競争には勝てない、と感じている人も多いかもしれません。中には、「それを言っちゃお仕舞いよ!」などと、警告する現代風の御隠居さんもいるかもしれない。確かに、目まぐるしく変化する環境に身を任せて行くだけでは、生存競争には勝てないかもしれません。でも、そもそも競争に勝つことの意義とは何でしょうか? 一定のルールの下で戦った結果の勝利であるということを忘れてはなりません。そこのところは議論するよりも、オリンピックのメダリストをみれば解るはずです。あの胸に輝く金メダルだって、一個作るのにいくらかかるの? とか、カネに糸目はつけないからぜひうちの息子に譲ってくれないか? などといった話は聞いたことがない。それは、公正なルールに則って正々堂々と戦って勝ち取った勲章であるからこそ価値があるのであって、メダル自体のモノ的値打ちではないはずです。最も、「それを言っちゃお仕舞いよ!」と警告する吾人も、リーダーの不道徳を容認しているわけではなく、ある程度は清濁併せのむ度量が必要だと言っているのでしょう。
言ってみれば、十のうち二つか三つは、時と場合により非合法なこともするかもしれないが、概していえば善人ないしは消極的な善人である思われる人々が参加して、民主主義のルールを作り、それを守ることで成り立っているのが世の中だと説いているのではないでしょうか。お説もっともで、オヤジも大賛成のようですが、善人の集まりをどのようにしてその他の人間と切り分けるかが問題です。芥川龍之介の言葉に、「阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている」というのがあります。その心は、阿呆は自分が阿呆であることに気がついていないので、他人のことを阿呆だと思っているということですから、自分は「余人をもって代えがたい人」であると信じ込んでいる人と言い換えることができるでしょう。これに従えば、阿呆でない人はほとんどいないことになるような気がしてなりません。もし、こういう人達が集まってルールを決めたとすると、そのルールもまた阿保なルールに仕上がってしまうことになるでしょう。だから法改正が必要だと言われればその通りですが、あまり多くは期待できそうにもありません。そう嘆くのもまた阿保の悪あがきというものでしょうか?