オヤジのボヤキは今に始まったことではありませんが、最近の社会情勢には我慢できないらしく、お母ちゃんを相手に不満をぶちまけている。例えば、今一番の関心事である新型コロナウイルスの感染拡大についてです[。一般国民は、政府の対応のまずさを攻め立てているが、一番まずいのは一人一人の行動のまずさである。つまり、国がどんなに声がけしても、自分自身がいま取り得る予防対策をしっかり取らなければ、感染拡大は広がる一方である。戦後の日本人は自由になったのはいいが、これが高じて利己的になったのではないかというのがオヤジの考えです。「政府」や「国」といった人が存在するわけではなく、元々国民のみんなが作り上げた仕組みで、これを運営する主体であるべき国民一人一人が我が儘放題に振舞っていては、政治は機能するはずがない。現在社会のありようを見ていると、「自分は悪くない、自分は犠牲者だ」と言っているように見えることがある。かくいうオヤジもその一員であることは承知しているため、あまり声高には言えないが、でも、いい加減、「小異を捨てて大同につく」という民主主義の原点に立ち返らなければならない。
確かに、国が打ち出す政策は切り味が悪い。しかし、それも、国民一人一人の我が儘をすべて吸い上げようとしているために生じた弊害かもしれません。「医療費が高い」「保険料が高い」「診療までの待ち時間が長い」など、日常の不満は確かに多い。確かに自分のおかれている立場での視点からすればその通りに感じます。しかし、「医療費が高い」のと「保険料が高い」ことは同時に解決するのは難しいでしょう。「診療までの待ち時間が長い」のは、非効率な診療体制にも原因があるのかもしれませんが、医療従事者の立場からすれば、医師の数が足りないとみているかもしれない。その証拠に、新型コロナ対応では、ベッド数や施設不足なども指摘されていますが、医師数の不足はそう簡単には補えるものではないことを思うと、国の医療体制そのものに欠陥があるようにも見えます。しかし、このような体制を容認しているのは、結局のところ私たちの我が儘が根底にあると思います。つまり、大きな声に幻惑されて、あるべき調整を誤った結果ではないでしょうか。ときには、頑固に見えても、自分の哲学に基づき予算の適正な配分をして見てはどうでしょう。
お金がなければどうにもならない。ときには命さえもお金で買える場合もあるかもしれません。しかし、私たちはお金のために生きているのではあれません。生きるためにはお金が必要だから、お金を稼がなければならないと思っているだけです。お金は元々自分の裁量で稼ぎ出すものですから、貧乏を他人のせいにしてはいけません。ただし、国民みんながある程度の経済力がないと、「稼ぐ力」が衰えて、結果として購買力が低下することになるはずです。となれば、お金を多くもっている人は、自分の才覚でだけ得たものと思わず、社会に還元してはいかがでしょう。そうすれば、企業の売上高も向上するでしょうし、雇用の拡大にもつながるでしょう。いま、新型コロナウイルスの感染防止のため、休業を要請する一方、満足な補償ができないため、経済を回すことに必死になっているのも、根底には、国民の経済力が疲弊しているからにほかなりません。いまは有事ですから、こんな議論どころではないのかもしれませんが、せめてこうした改革のビジョンを示し、国民に希望を与えることがコロナ対策にも有効ではないか、ということのようです。